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熱を伝える、しごと

 私の住んでいる地域は再開発が盛んだ。車で五分の藪や荒れ地はここ数年でとみに整地され、住宅や商業施設が日に日に姿を現している。

 一年前、私はその新街区に開店予定の子どもクリニックの受付の求人に目を落とし、真剣に転職を考えていた。

 今度こそ、誰かの求めに応じて事務をこなし、その枠組みの中で人の役に立てるのではないか。アドリブの常に求められる教員という仕事よりもむしろ、誰かほかの人の建てた柱を支える手になった方が、自分のように揺るぐ心の持ち主の動揺を人に伝えずに済むのではないか。学生時代に努力すれば成績として報われたように、努力すればそういう、「人並みの社会人」になれるのではないか。

 私は3年半前、ずっと夢だった「英語の先生」になった。夢見ていたような授業をするのには受験英語という現実の壁が立ちはだかっているように感じた。何より時間感覚の弱さやスケジュール管理の苦手さ、「集団」の空気は感じるのだけれどそれに即応する反応速度の遅さ等々、私の発達特性が通常の教科書内容をさらうことすら、困難にしているように思えた。そのまさに「理想と現実のギャップ」に苦しみ、自分の特性を「またもや」呪っていた。教員以前のシャカイジンで失敗した時のように。

 振り返ってみると、私は多分、他の人のような授業ができないことに、何より悩んでいたように思う。〇〇先生みたいに、論理的で演繹的な、文法を理路整然と解説し、生徒をタイミングよく沸かせながら、英語という受験教科を制覇するような授業。

 コロナの影響で思いがけず、オンライン授業をする側とされる側の両方を2カ月経験してみて、今はこう思う。文法を理路整然と説明する、という要素も大切だけれど、「熱」が伝わることが人間が授業をする何よりの要素。「熱」というのはその言葉通り、情熱のようなものであるような気がしている。教科や学習への取り組みを通して、生徒それぞれが人生を展望するための助けになったり、学ぶことがなければ想像もしなかった他者の視点に想いを致す機会になったり、その子自身の特性にあった課題への取り組み方の試行錯誤の場になったり、クラスメートに人間の多様性の縮図を見たり。教員の仕事って、教科そのものの効率的な情報伝達ではなくて、むしろそういう場づくりやそのアシストなんじゃないかと、この頃改めて思っています。

 そして、もしかしたら、自分が欠けているところが多い分、忍耐と愛を持って人の成長のアシストに臨める部分があるんじゃないか、そう思い始めている。知識と技術さえあれば。そして、私はそれらを身に付けたい。だからパート大学生を続ける。

 そういう風に思えたのは、自分の特性を、学校に戻って発達障害を学んで受け入れ、過去のたくさんの失敗経験でできた心の傷をホメオパシーとインド映画を通してじっくり見つめて癒し、心と体が元気になったからに他ならない。

 求めよ、さらば与えられん。

「あの時転職して子どもクリニックの受付にならなくってよかった」

 開店したのか、いろいろなところで見かけるようになったその子供クリニックの看板を折に触れて目にしては、そう、想っている。きっと、わたしは、英語を教えるしごとに従事していた方が、人々に熱を伝えることができる。子どもクリニックの受付になって伝えただろうよりも、はるかに多くの熱量をもって。

 私は、わたしにできることをこれからも尋ね続け、学び、身に付けたものをもっと還元できる人になりたいと思う。



 今週から授業が再開。やったー!がんばるぞー!!





今のわたしのもう一つの、熱。

読んでみてくださいね。



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