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【短編】「また来てね」と最後に、心は言った。

 そのエントランスには見覚えがあった。横の一般通用口とは違う木の重厚な造りで、既視感のある隣の花屋さんが「ちょっと待っててくださいね」と微笑みながら開けてくれる。それはエレベータ用のエントランスで、カイロあたりにありそうな地震で倒壊することなく一世紀越しにそこに建ち続けているような石造りのアパートメントの、中層階に私たちを運んでくれる。

 その部屋はニット服飾のセレクトショップで、やはり素敵な笑顔の清潔感のある女性の店主が、その染めや編みの工程の丁寧さを淡々と説明してくれる。

 なぜだかそこで、絶対的な癒しが起こった。家族関係とか虐待とかそういうものを、無意識下に置いてしまっている過去に意識と存在ごと遡り、経験と魂とそっくり理解しなおして、現実に戻ってきたら涙が一筋流れているような。そんな体験がものの数秒で起こった。

 私は、そこに行ってみるといいよ、と勧めてくれた良い中年の知人に心から感謝した。

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 思えばその夜の眠りは浅く、未明からところどころ目を覚ましてうつらうつらしていた。それは夜が明けて来る一日の準備が終わっておらず、とびきり早起きしてそれを整えてしまわねばと神経を緊張させていたからだったかもしれない。

 目覚ましは5時にセットしてあったのに、4時に目が覚める。よし、もう少し、とその外との温度差を季節が絶対的なものにしている羽毛布団の中でまどろんでいた。今朝に限らない。何となく数か月間心とともに緊張させ続けてきた体を、布団の隙間から入ってくる冷気に注意しながら伸展する。肚から心臓にかけて、あちこちの内臓に手を当てて深呼吸をする。

 心臓に手を当てていたら、心と会話できる波長に意識のピントが合った。どういう会話をしたのか、良く記憶していないけれど、意識を向けてくれたのね、と彼女が喜んでいたのは確かだった。

 「また来てね」と最後に、心は言った。

 思えば今朝方の夢は、彼女に会いに行ったのかもしれない。花を売り、丁寧なニットとそれを編む人の仕事を心から愛する彼女に。

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