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本当の意味で奉仕(serve)するしごとでありたい。

あなたは連休中、どんなことを考えていましたか?

本当の意味で、目の前の人に自分がそのときに全力でできることを仕事にしたら良い、と考えさせられるできごとが続いた、わたしにとってはそんな黄金週間と、四月卯月後半戦でした。


(その一)残念な靴屋さん

一つは、某チェーン店の靴屋さんでのこと。

その日は昼頃からの大雨で、普通の靴を履いて登校した長女(小5)の足元は、靴下も、靴も、絵にかいたようなびしょ濡れ。

まずは靴下を、と思って、靴下コーナーへ行き、適当なのを選び、店員さんに「ちょっと、靴下がこういう状態なので、先に開けて履かせちゃっても良いですか?」と尋ねる。

「はい、でも靴下は3足セット販売なので、あと2足選んでください!」と元気よく答える若い店員さん。

(あと二足…)綿の配合の少ないほぼポリエステルの靴下で、あまり好きになれないものを、過剰に所有するのは嫌だったので、

「ちょっと、靴下が今濡れていて困ってるんです。今、履いて帰れるのがあれば良いんですけど…」と私。

「靴下は3足セットでしかお売りできません!」

悪びれず相変わらずさっぱりおっしゃる店員さん。

「そうですか、じゃあ靴下は購入しないことにします」と、試着用の靴下をお願いし、問題なく貸していただく。

(試着用の靴下、濡れちゃうな)と思い、「何か、試着中にお借りできるサンダルとか、ありませんか?靴下、濡れちゃいますし…」と尋ねるわたし。

「ありません!」と答え「何かほかにお手伝いできることがあったら、声かけてください!」と、棚の陳列か何かの作業に踵を返す店員さん。


私:((( ^ω^;)・・・))


そこに靴があるのに、靴下があるのに、「定型販売」という目的以外のものをここでは売っていないんだな。それはこの店員さんの個性なのかもしれないけれど、一人で任されているところをみると、そういう社員教育をしている企業なんだろうな。

と、大変残念な気持ちになった。

長女の足が濡れていて可哀そうで、他にお店も近くになかったので、長靴をくだんの靴下の上に試着させて買った。それは中国製の黒いゴム長靴がちょっとおしゃれになったようなもので、ごせんえん近くした。某作業用品店で900円で購入した、私の頑強な長靴を恋しく思った。

試着後、店員さんが「じゃ、試着用靴下返してください」とさっぱりきっぱりおっしゃったのは、想像いただける通りである。

まあ、そうだよね、マニュアル的には満点。

そうなんだけど、それ、AIでもできなくないですか、と、私はわたしと自分の周りの子どもたちに、問い続けたい。

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(その二)残念な薬屋さん

ちょっとこちらは、自分的にはヘビーです。

かいつまんで話すと、諸事情により自宅から別のところで1週間ほど過ごすことになり、その間に予約日があった心療内科を電話で遠隔受診し、そちらで主治医から書いていただいた処方箋でどう、お薬を出していただくか、という扱いが、薬局によって対応が大変異なり、そこに仕事観が見え隠れした。

前の夜に急遽家を出たので、その日は毎朝飲んでいる薬を飲まずに、午後に予約の入っていた診察を受けた。病院の事情で診察が祝日に変更されていて、病院最寄りの薬局は一緒に開けていらしたのだけれど、距離的に受け取りに行けるところにはいなかった。

そのため、病院の受付と隣の薬局の両方にいろいろとご相談して、処方箋をさしあたりそのときいた場所にファックスで送ってもらうと同時に、私のところに郵送するのが一番早いのではないか、ということになり、そうしていただいた。

セロトニン取り込みを阻害するお薬で、気分に作用するお薬なので、先生には「二日は開けない方が良いですね」と言われた。念のため断っておくと別にヤバい薬(笑)ではないのだが、急に止めると、そういう種類の薬は離脱症状が出るから、緩やかに断薬してゆくものらしい。

翌日9時に受け取れるよう、その時の居場所から一番近い薬局に、オンラインでファックスのコピーを送って予約しておいた。

翌朝、すでに頭が痛くなったりしてきていたので、開店してすぐに薬局に行く。事情を話して、こうこうこういう一連のどうともし難い理由があって薬が手元になく、離脱症状も出ており、医師に言われた二日がもうすぐ経つところで体が辛く、処方箋の原本は今日か明日には手元に届くので、さしあたり薬を出してほしい旨をお伝えした。

原本がない、と聞いた薬剤師さん、即答して

「当店では原本がなくてはお薬はお出しできません。」

「こちらのお薬は(精神科とかじゃなく)普通の内科でも出せるお薬なので、事情をお話しされて、同じ処方箋を書いていただいて、それをお持ちいただくのが一番早いと思います」

・・・えっ、そうなのか?

ちゃんと理にかなった事情があって、フォーマットは一時的に欠けているけれど処方箋があって、そして何より目の前に薬を必要としている人がいるのに、この「薬剤師」さんは薬を出してくれないのか
処方箋を出す、ってそれにもお金がかかるんだよ。昨日の診療で、それは既に払っているお金であり、手元のFAXの処方箋がまっとうだってお医者さんが分かるんだったら、どうして薬剤師には分からないんんだろうか?どうしてその「手続き」のためにもう一度、この苦しさをもう数時間こらえてそれをやらなくてはいけないんだろうか??

本当にからだが辛くなってきていて、嘘じゃなくて、原本は今日明日に届くので、お医者さんに電話してもらっても良いので、とにかく一錠でも今、出していただけないものか等々、説得を試みると、しぶしぶ「上の者に確認してみます」と言い、奥で電話をしたり相談すること10分ぐらい。

こりゃあ、ダメなんだろうなぁ…見知った土地ではあったので、以前かかったことのある内科に予約を入れながら待った。

確認いたしましたが、決まりは決まりなので、申し訳ないのですがうんぬんかんぬん。というご回答だったのはご想像に難くない。

頭が痛いし気持ちが悪いし、自分の中では不条理すぎて理にかなわな過ぎて、涙が出た。だって、数メートル先に薬があるのに、それを必要としている人がいるのに、どーして売ってくれないんだろか?主ら、何の薬屋ぞ。


その後、内科で待ちながら、そこの最寄の薬局がその薬を扱っていなかったので探し、見つけて一応事情を話したところ、「ちょっと待ってくださいね、それってコロナが関係あったりします?」と聞かれ、「風が吹けば桶屋が儲かる、程度には関係なくはないです。ははは」と答えたら、

「それならコロナの『ゼロなんとかかんとか(←数字(苦手)三つ)対応』でオンライン診療時の処方ということで、病院から直接FAXいただければ大丈夫ですよ」と言ってくださり、主治医にコンタクトを取り、薬を出せるよう都合をつけてくださった。

それが万事整ったのは、処方のための内科の「受診」と前後したので、結局私は処方箋を、主治医からのFAX受信のものと、内科から出たてほやほやの二つ携えて、その機転の利く店員さんのいる薬局に向かった。

そちらに着いて、名前が呼ばれる頃には、午後の13時近くになっていた。薬剤師さんがお薬の説明をしているのを遮って、すみません、気持ち悪いので一錠飲んでもいいですか、と確認すると、そうですよね、離脱症状の出るお薬で大変なことと思います、と快く待ってくださり、また別の意味で泣きそうになった。

あなたは誰の役に立っているのですか。

働いている人、正社員でも非常勤でも、アルバイトでもパートでも、問うてみて欲しいと思う。自営業の人は、きっとわかりやすいのかもしれないけれど、人から遠ざかってお金という媒体に特化した商売であればあるほど、なんだかその質問への答えは、観念的になるような気がしている。

観念的でも、胸張ってお天道様に顔向けできるのであれば、それは全うな商売なんだろう。でも、おなかから胸のあたりがちょっと苦しくなるような、後ろめたさが、少しでもあるようなら、もしくは答えられなのなら。ちょっと、立ち止まってもいいのかもしれない。むしろ、からだを使って前線の前線、下働きをした方が、よっぽど魂が磨かれる。

(いや、いるだけで良いのだけれどね、本当は。闘病中だったりする方は、それで良いのです。手を重ねられる対象が居てくれるだけで、ありがたい人がいる。だから、上記は、お金をいただく場合、なのかもしれません、主には。でも、お家のことをやっているにしても、一緒のような気もします)

同業の「先生」という仕事をしている方々にも、尋ねたい。

あなたの発するひとこと一言は、本当に、深い所で生徒のための一言ですか。生徒の成長するところを認め、讃え、伸ばす一言ですか。

それとも、表面は生徒のため面(ヅラ)をしていても、内実あなたや組織のエゴを保つために資しているような、学校の「教育成果」を挙げ、それにそぐわない生徒を人間として切り捨て、自尊心をいともたやすく傷つける一言ですか。

後者が多いと自覚できるのだったら、教員なんてやめちまえ。

と、心から思っています。

エゴ、傷つきましたか?

一度、社会に出て、もっと傷ついて傷ついて、辛酸舐めてみたらいい。そうしたら、劣等生や つまはじきにされる変わり者の気持ちが、ちょっとは分かる、まともな人間として教壇に立つことができるでしょうから。


前者の心持で、がんばっていらっしゃる先生方が、たくさんいるのも、存じております。微力ですが、もうちょっと、がんばりますので、一緒にがんばりましょう!

インスピレーションは突然に。

noteをはじめた頃にご縁があってフォローしているみじんことオーマさんが、こんな記事を書いていました。

応援する人、働く人、わたしたちの生き方の一挙手一投足が、力になる時代なのかも、と感じております。

情報や商品の消費者としての自分の力に自覚的であるとともに、消費者としてではなく、創り手にもなれるのが、インターネットによって可能になった各種プラットフォームのありがたみであり、それは内向的だったりマイノリティだったりして集団の中では避けがたく声が小さくなってしまってきた人間には、本当に福音であるな、と心から同意いたします。(そして、そこに私も私の娘も含まれているので、そこを推していかねば!と楽しく意気に感じております。)

みじんこさんも書かれていますが、noteのありがたみ、なくなってしまったら、を考えると、確かに身に沁みますね・・・。空気のように吸っておりました、note事務局さん、ありがとうございます^^



マイノリティでも、負けんぞ、と、気を新たにしている皐月の子どもの日です。

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