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ブループリントの揺らめき
青写真を「具体的に」思い描いてこそ、それが実現する、
ときいて、うんうん、そうだな、と思うでしょうか?
たとえば「引き寄せの法則」が語るように
ある想念が叶ったときの「感覚」を五感で事前に「再現」してしまえたら
そのものごとの具象は現実として表象される、
それも本当だと、思うのです。
けれども一方、ある実現すべき「想念」の片鱗が目の前に差し出され、
それが伝えて来ようとする全体の糸を手繰るように、
そう、まるで芥川の「蜘蛛の糸」のように、
何かが自分を掬い上げ――そこに競争はなく――、導かれるようにして
「想念」の現実化の一助となる
――そういう、青写真と自分との交わり方、のようなかたちや在り方があるように
最近、感じています。
つまり言い換えると、自分という人間が自らの頭で意図し、それを理性の範疇に置いて最大限設計・計画する方法と、
自分を媒体として整えることで全体の健全なはたらきに最大限に調和し、機能する在り方、
この二種類のアプローチが、夢を叶えるというある人間の営みには、あるのではないか、と観察しています。
さらに言えば、前者はある目標に向けた理性的な在り方であり、後者は現象を読める心身の状態によって
いかようにでもお使いください、と日々奉仕する意図のみを讃えた、感覚的なアプローチであるとも言えそうです。
手短に換言してみると、それぞれ、「西洋的な在り方」と「東洋的な在り方」でもあり、
これを「時間を線で見る在り方」と「時間に点として接する在り方」で切り分けて、
後者に可能性を見出しているのが、
現在訳させてもらっている本『TIME WARRIOR・いのちのじかんのまもりびと』だったりするようです。
ここまで、理解するのに、本と出合ってから二年近く、翻訳を初めてから、一年半近く。
常識も体面もどこ吹く風、自分の羅針盤にのみ従順に
「今ここでこの人に会った意味を考えてるんだよね~」と目の前の人に
己の持てるものを差出し、また他者に素直に求めていく人の在り方に触れ、
それがこそ世界を平和に造り替えていく素直な神の手足のようで、見ていて胸のすく思いがしています。
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ブループリントの揺らめき
青写真は幾らかな?
それはプライスレス 換金できぬぞ
それはウェイト・レス 重さも図れぬし
それはタイムレス 時間軸にもプロット不可だぜ
ブループリントの揺らめき
その青い焔を感じる
ブループリントの揺らめき
その青さにあなたを溺れさせて
青写真は陽炎
身を焦がせ 火中の石の如く
この身焦がれること 身を粉にするが如し
一介の砂塵の 何と愛でたし
ブループリントの揺らめき
未完の現象を行為する
ブループリントの煌めき
突入するのよ 意識から💛
令和三年九月十九日
智未
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歌詞調にしてみた✨ #誰か曲つけて
引き続き、曲、ゆるぼです♪
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