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心の天秤と数珠つなぎ

∵心の天秤∵

モビールってつくったこと、あるだろうか?

一本の棒のどこかに中心となる紐をかけて、その左右に異なる「おもり」となる飾りを吊るすのだが、おもりの重さの大小に配慮して、その中心からの距離を調整してゆく。

その左右のバランスが取れて、均衡した両腕が中心を軸にして小刻みにユラユラするところにピタッと決まった瞬間、なんとも言えない充実感を覚える。

子どもたちの作った「アクアビーズ」が家のところどころで発見されストレスになっていた。数日前、ふと「この透明感とまるまる感が宙に浮いていたら可愛かろう」と思いつき、お天気のよろしくなかった昨日の夕べに実行に移した次第、やってよかった…!

少しの風で微動するそれらのまるまるたちは、わたしの心をくすぐる。

遊園地のパイレートボート(海賊船に見立てたボート状の乗り物が、あちらとこちらにぐわんぐわん揺れて、遠心力で浮遊感をおっかなびっくり楽しむやつ)よろしく極端に振れやすい自分自身の有り様にくたくた疲れさせられることの多いわたしにとって、

「中庸・得たり!」みたいな快感があるのだろうなぁ。

∵数珠つなぎ∵

連綿として受け継がれているものって、可視・不可視に関わらずあるものだ。

不可視の数珠で直近で思い出すのは、きぶつじむざんに御館様が向けた「この長い年月の間にたくさんの鬼殺隊の子供たちが死んだけれど、それは君が許されていないということじゃなくて、君はこの間何度も虎の尾を踏み、竜の逆鱗に触れている。」「不滅なのは人の命じゃなく、想いなんだよ」というくだりだ(@鬼滅の刃)。

ちゃんとそういうのを受け継いで、残して死にたいと思ったとき、負の遺産じゃなくって尊いものを後世へ、と思う。(そしてそれはきっと脆いから、だいじに手渡さないとすぐに壊れてしまう)

大正一桁生まれの祖母と、昭和二十年代生まれの母は、受け継いできたものが否定され、寄る術がなくてどこか苦しかったんじゃないかって思う。それは明治維新の頃以来、西洋文化と在来文化がごりごりすることになったとき、動植物の在来種が外来種よりも避けがたく脆弱であるように、都市化が進む毎に生息地を追われ、隅へ隅へと追いやられていった歴史があるような気がしてならない。そして、戦後それは更にひっくり返されて、その末端の極みを、私たちは生きている。

数珠つなぎになったそれを、今のわたしは一体どうしたら良いのだろう、と一瞬、途方に暮れる。

しかし、一粒ひとつぶの生命としての輝きは確かにそこにあるだろうということに思い及び、そこに希望を見出す。

――きっと、一度全部ほどいてしまえば良いのかもしれない。

時系列などお構いなしに、今に必要な要素を、ひいひいひいひいひい…おばーちゃんの代でももっとそのまた前でも良いから一番近いとこにつないで、必要なものはぜんぶ放射状に現在につないで、均衡させる。相似形の数珠のモビール。


そんなことを、日常のいろいろなところで見聞きし考えています。





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