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マジョリティが正しくないこと、なんてたくさんある

 社会からはじかれる気持ちを経験したことがあるだろうか?

 わたしは、ある。

 社会人になっていくら努力しても努力しても要求されている水準に追いつけなかった時。睡眠時間を削って時間を費やしても、追いけなかった。度重なる失敗と叱責に、自分の能力は社会の必要水準に満たず、仕事という形で人の役に立てない、役立たずな人間なんだと思った。次第に、体と心を病んでいったのは言うまでもない。あの時の私は、どんな支援の手を求めたら良かったのだろう?

 結婚しようとした相手の人の国が婚姻許可証とやらを出してくれず、意に沿わず事実婚での出産となり、生まれた子供が非嫡出子となった時。当時、経済的に大変だったにもかかわらず、事実婚では税制上の優遇が受けられない一方で、保育料算出の課税対象所得の算出には二人分の所得が考慮され、法が求める形に収まれないことは何て損ばかりなんだろうと思った。この現代日本にあっても、「夫婦となる両人の意思」に基づく結婚が必ずしも認められるわけではなく、また法に定められているその形なしでは社会のセキュリティネットの網目からいとも簡単に零れ落ちることを知った。そして、例外にいちいち適応してくれる程、制度は柔軟ではないということも。子どもをそれでも産みたいと思った私を両手を広げてサポートしてくれたのは、制度ではなく家族や友人だった。

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 マジョリティ・多数派やその治世を席巻している権力が正しくないなんてことは、歴史上たくさん、たくさんある。その時世に人々が常識として疑わなかったことが、後に人間性の歴史的汚点とされている例。それは魔女狩りかもしれないし、奴隷貿易かもしれないし、ホロコーストかもしれない。

 では、今のスタンダードはどうだろうか?後人に誇ってこれが正しかったと言える、ビジネスであり、法律であり、政治であり、倫理観であり、教育である、と、果たして言えるだろうか?わたしたちはいつでもそれを、大衆の心理やいかなる権力にも流されず、個人として肚に落として考え、判断し、それに基づいて行動しなくちゃいけないと思う。

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 わたしは教育現場で働いている。大学受験という額縁に入って権威の光をたっぷり浴びて正しさを主張している制度に一番さらされている、高校生たちが目の前にいる。

 受験は画一的な教育を求める。いや、それに対応し続けて来た現場自体が、AはAであり、BはBである、というペーパーテストへの順応性を生徒皆に求めている。これに順応できない生徒への対応にあっては、努力が足りない、もっとがんばれ、という古びた精神論が今でもまかり通る。違う、と思う。変わるべきは教育の方だ。

 先日、村田さんのこちらの記事を読んで、正直泣いてしまった。それは、発達障害をもつ子どもが直面する困難に、社会人に失敗し続けた自分が重なったからだ。

 生徒が何かできないことがあった時にはベクトルが二つあって、それは「その子が合わせる」本人の努力の矢印と、「その子に合わせる」周りの環境を調整するという矢印だという。発達障害をもつ子は、感覚の過敏さや人の表情の読めなさ、それから過去の失敗体験等によって恐れの感情を抱きやすい。ビクビクしてしまうのだ。それを「その子に合わせる」を続けていくことで、心が開き、「できるところ」が光出し、人の手をかけて初めて美しく咲くユリのように、花を咲かせる。――この比喩がとても美しくて、そうだったな、そうなんだろうな、と思ったのだ。

 高校という場に3年半いただけでも、そんな生徒とたくさん出会ってきた。ある子は得意・不得意が極端で、ある子は何事を成すのにも人一倍の時間を要した。彼ら・彼女らを、統一の物差しに合わさせることなく、それで評価することから自由な授業を受ける権利を保障できたのなら、この社会に実現される創造性が今よりずっと壮大になるのに。

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 異質なものを社会からはじかず、その長所を希少性として尊重し、活かしていくような教育があたりまえになったら、色んな問題が解決すると思う。

 本人の意思に沿わず引きこもりが余儀なくなっている大人や、不登校という形で意思表示をしている子どもたち。いじめ。これらは、教育というシステムで能力の凸凹を認めすに、生徒の側だけに一定の水準に合わせることを求め続けた結果の、歪みなんじゃないか。

 そういう今の教育体制を、そういうものだから、今までそうだったからとただ維持し続けていたのでは、後の世に批判される歴史の作り手と変わらない。マジョリティが正しくないことなんて、たくさんある。

 だから、私はこの画一的な教育が正しくないということをちゃんと言い続けたいし、じゃあどんな教育ができるのかを学んで、それを実現するためにアクションを続けていきたいと思っている。そして、社会にはじかれた思いをしたことのある人間だからこそ、どんなにポンコツでも教壇に立ち続けて「やればできることもあるけれど、できないこともある。だからあなたの好きなことを見つけ、長所を活用して生きる方法をつくっていくのを最優先にして欲しい」というメッセージを伝えていたい。今は、少なくとも。

 そんな、グレーな先生がいても良いのではないだろうか。

 

 

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