見出し画像

無知の知とガンジーとパートナーシップ

無知の知、というのを高校一年のとき倫理で習っていたく感じ入ったのは、三十路も半ばを過ぎて今は昔、並にづいぶん前のことになってしまったが、

無知の知に傲慢な人ほど愚かなことはないし、

また一方で人間は物事を自分の都合の良いように解釈し、

いとも簡単に無知の知に鈍感で居続けられるものなのだな、

というのを自戒をこめて目の当たりにしている。


だから、謙虚でいて、居過ぎることはないのだな。


たった一回、されど強烈な印象を以って私の旅行体験の中でも珠玉の輝きを放っているインドで訪れた、グジャラート州にあるガンディー・アシュラムの碑に刻んであったGandhijiの詩「PRAYER(祈り)」を想う。


My prayer extends;


The Lord of Humility,

Dwelling in the little pariah hut,

Help us to search for thee

throughout "this" fair land

watered by "the tears of those who truly care and 'take' care".


Give us receptiveness,

Give us open-heartedness,

Give us Thy humility.


Give us the ability and willingness

to identify ourselves with the masses of "duniya".


Oh, God

Who does help only we feel utterly humble,

Grant that we may not be isolated from "our better-half".


We would serve as servants and friends "and lovers",

Embodiments of Godliness "and Goddess-li-ness",

Humility personified.


So that we may know the land better

and love it more.



with respect to Gandhiji.


-satomi




「頑張ったね」とでも言って欲しいのだろうか?

彼の特性も知っているから、これが5歳児の男の子だったなら、可愛そうなことをしているよな、と自省して、

でも、

彼がいくら言って聞かせてやらせてみて、を繰り返しても「お手伝い」レベルの家事に留まっていて、「ここはこうした方が、他の人の手を煩わせないよ」と伝えても「僕はやってるのに」の一点張りであるところに、肚が立つ自分もいたりして、

それは私のエゴなのか?


と考えたときに、

いや、そうでもあるけれど、そうでもないぞ。


私が結婚したのは、5歳の男の子じゃなく、
今では四十になる大人の男性の筈だ。


と思い直す。


すると、

自分に不当な扱いを許し続けている自分の理性というか男性性の不甲斐なさが思われ、

それは適切に、わたしのからだが楽になるように、

粛々と対処してあげないと、

この「私」という男性性が何をおいてもケアするべきであり「私」しか本当の意味では一番に考えてやることのできない「わたし」という女性性――言い換えるとこの体・身体性、敷衍すると感性――に申し訳が立たないぞ。


と身につまされるのである。

彼女は「私」が思うよりもずっとスペシャルで、デリケートで、demanding, 要求が多い。


彼女に振り回されるなら本望。


位に肚くくっていたいですよね、

内なる男性性も、

外なる男性も。


投げ銭は、翻訳の糧になります。