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家族とは何ね?

子どもとはいいもので、その成長の過程に寄り添わせてもらうことは純粋な喜びを心にもたらす。

Facebookの「過去の思い出」で、6年位前の写真が出てきて、長女はまだ五つ、次女は二つぐらいで、クリスマスケーキを前ににっこりしている。満面の笑み。過ぎ去りし日の美しさに胸が切なくなった。

長女とパパの暮らす茨城に、数日の予定で、帰って来ている。長女に料理を作ってあげていたりすると、その典型的なお母さんをなぞれている自分に、少し安心する自分を見つける。ちょっとぎょっとしながら、それもしかたなし、と自分をなだめる。

シチューの色味と仕上げに、パセリがあるかと長女に尋ねると、ちゃんと水やってるよ、あるよと言う。11月の引っ越し前に住んでいた家から持ってきたプランターに、パセリがとうのたったようになってほぼ種になって息づいている。先っぽを摘もうとして、思いの外茎が長く取れてしまう。

まな板を出すのがめんどうなので、調理ばさみでパセリを刻みながら、鍋の上からぱらぱら落とす。

ああ、こういう幸せって、あったなぁ

けっして、これを捨てたいと思ったわけでもないけれど、ある意味手放してしまったものに、柔らかい郷愁を抱く。

こんな、小さな生きものを育てて、周りの生きている(多くは小さな)ものに手仕事(多くは手料理)などで、還元してゆくようなこと。世話をする、までゆかなくとも、自分の持てる大人としての力を周りの生きているものが楽で楽しく気持ちよくなるようなこと。そんなことで、人間はけっこう幸せになれるんだろうな。そんなことを改めて思う。

同時に、その幸せが、手に余る負荷と自分の心を束縛するようなかたちとトレードオフだと、それは家族という名前で正当化された搾取って呼べそうな領域に、なる気がする。それは決して一方的な搾取じゃなくって、共依存的になっているから起こることなのだけれど。いずれにしても、心と経済の自立が、必要ってことだ。

Imagine there's no possessions
I wonder if you can

「所有のない世界を想像してごらん
むずかしいかもしれないけれど」

ジョンレノンもそう、唄ったように、所有という概念のない世界は、構成員である人間皆が皆、悟ったような世界だろう。

Imagine there's no country
Imagine there's no heaven

国家のない世界も、天国のない世界も

It isn't hard to do

創造するのはそんなに難しくない

と言ったジョンが、所有ばかりは「難しいかも」って言うのは、分かる気がする。だってそれは、人が執着をもたないということだもの。モノにも、そして人にも、ましてや国や宗教などなどに、執着しなければ、それは所有のない世界ということでしょう?

でもねぇ…、本気で思ったんだ。

引っ越し前の5年来のご近所さんを訪ねて、閑静な住宅街で美しい生垣に囲われて個々の家族が家族として、半径10メートルに住んでいる人とさえもろくに生きていることを分かち合わずに、達成されている豊かさや幸せというものを、12月の夕空の下で見るともなく、みていて。

この家族という囲いが薄らいで、モノも、愛情も、お金も、高い所から低い所へ水が流れるように、分かち合われたら?

――そんなことを、娘達のパパにさっそく話したら、それは理想だけど現実は違うから、と一掃された。

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one

わたしの世界は今日もふわふわしている。

でも、それで、いいや


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