やり場のない思いに、居場所を。
やり場のない思い、寄る辺ない人達。
行き場のないことは、モノ・コト・ヒト、そして無形の感情でさえ、私たちにある種の途方に暮れた、所在ない感じを抱かせるものなんだろう。
茫漠とした寂寥――こんな語彙に初めて出会ったのは、中島敦『山月記』を授業で読んだ十代だった。はじめ、意味が分からなくて面食らった。語彙のフォーマル感が半端なく高く、日常生活では決してお目見えしない部類の言葉のように感じた。
四十を手前に、日常のふとした場面で、涙が出ることの多い秋を迎えている。先日、仕事上がり、駐車場までの少しだだっ広い芝の上を西に向かって歩きながら、ふとこの「茫漠とした寂寥」という言葉が心に立ち上ってきた。
人間関係に馴染めていないような感じは今に始まったことじゃないし、そうした日常の異邦人感を分かち合える人じゃないパートナーとの結婚生活も、もう15年を迎えようとしている。慣れっこだい、と強がってみても、やはり心の奥は空っ風。
二十代の、ああこの人とは世界を深く覗ける、という出会いを思い出し、懐かしさに胸がいっぱいになる。共に、毎日を定点観察できていたなら、毎日は、どれほど奥行きをもって、世界を深く覗けたことだろう?たらればの願望に似た渇望は、この歳になってイタイのは分かっている。永遠の中二病かもしれない。
それにしたって。どうして日常は、できるだけ浅い観察力で過ごすことを求めてくるのだろう?日々を送るのに、深くものごとを捉えて追及しようとすることが、どうして枷になるのだろう?どうして、そうしたいゆっくりのわたしを残して、物理的な手足を頭で動かしてせかせかと動いているのだろう?どうして、そうしなければ間に合わないのだろう?
わたしの自我は、疑問だらけの「何で何で」期の子どもの心のまま、身体だけは肉体の盛衰を確実に辿ってゆく。どうかこの身体と魂に安寧のあらんことを。Body and Soul、太陽浴びて踊り出したいのに、この手枷は何だ?もしくは、この手枷のウェイトを、私の Soul は楽しんじゃってるんだろうか……M過ぎる。
――いずれにせよ、何事にも、受け入れられて、そこに居て心地よい居場所が必要みたいだ。直接、誰かに伝えることの叶わない心の綾を、私はこうしてnoteに書き出すことで、何かのバランスを取っているのかもしれない。
お読みくださり、どうもありがとうございました。
追記:
AIアシスタントに、タイトルを生成してもらった。
試しに「魅力的な」タイトル、をお願いして出てきたのが、次の通り:
- 「やり場のない思いを解放!寂しさを打ち破る方法」- 「茫漠とした寂寥からの脱出術」- 「15年の異邦人感との戦いに別れを告げる」- 「観察力を磨いて、深く世界を覗こう!」- 「心地よい居場所を見つけて、魂の安寧を取り戻す」
――ギラギラしていて、笑ってしまった。
何だか意図するのと違うので、あまり「魅力的」ではないかもしれないが、元のタイトルのまま公開した。
キャッチ―ではないタイトルにもかかわらず(笑)、この記事を目に留め、ここまで目を通して下さった方へ、改めてお礼申し上げます。ありがとう:)🌺
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