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《ぜんそくというメンタリティ》不適応/ヒキコモリ/うつを現代シャカイで患える健全さ

 「からだの病が、物理的な治療で治るなんて、
経験的に信じる人など居るのだろうか?」

 幼い頃からもの言えぬ子どもだった。内側に抱えているものが多いのに周りの意図が良く分からなくて発語するタイミングを計りかねるという自閉傾向スパイラルが物心つく前には既にあったその分、よく【何かを患って】は【母の看病と病院とそこでの人からの温かい関心】を勝ち取っていた。

 そんな幼少期からの経験から言えることは、表現されなければならないことの総量と表現の手段と機会の間に埋めようのない齟齬ができてしまったとき、人は患うということであり、それは三十六年ほどこの世で生きてきてほぼ確信するに至っている。

 もう一つ重要なことは、人は誰か別の人からの肯定的な関心をデフォルトで欲しているということだ。言ってしまえば、誰かに埋めてもらうべき心の凹の部分を生まれたときから心に有していて、そこが満たされるのを、待っている。そこが子どものときに満たされない場合大人になって自分で満たすことになるのだけれど、長じた頃にはそのニーズが何かに覆い隠されている場合がほとんどで、何かよじれたり的外れな物質的なことでそこを満たそうと模索するから、その途上で他人が自分を満たすことを阻んだりしながら一生を終えることになる。一人の大人として、そういうことには自覚的でありたいと、心から思う。(ちなみにそんな理由から、子どものときの夢は看護婦さんだった。ケアされたい心の裏返しで、誰かをケアしたいとニコニコしながら、思っていた。)

 さて、二十歳の時から季節の変わり目に思い出したようにやってくる喘息に、この数日、見舞われている。(オカエリ!)よくよく観察してみると、昔そうだったように、昼と夜の境目に、喘息様はおわします。コン、コン、とつついたようなのがはじめに出て、それが堰を切ったようにゴホゴホ、と止まらなくなる。――何かに似ている、咳にあえぎながら、薄い意識の層をわたしは泳いでみる。

 「境目」――そのことばをキーワードとして、現実と瞑想的な思考の糸を辿っていく。

 思えば今、わたしは人生の構成要素のさまざまな面において、境目にある。仕事、結婚、衣食住、それら一連に対する意識が革命と呼んでも良いほどにひっくり返ってしまうような経験がこの半年で立て続いていて、そういうものが一切合切見直され、ライフスタイル全般で取って代わろうとしている。途中、「常識的な」声に揺り戻されちょっと後戻りして、でもやっぱり善いと想える野生の勘を信じて行こう、と足を進める――そういう、押したり引いたり、を波のように繰り返している。満ち引きの大きな時期。岩礁はこうして削られ形を成す。河口は時々刻々と形を変え砂浜を動かす。生物なんてそんなもんだろう。

 その中のパートナーシップに於いて、この十二年間、子育てへの必要という意識から婚姻関係というものを結んでいたのだが、そこに付随する(と相手が信じている)女性としての役割として自分に期待されるものがわたしにとっては息苦しかったようだ、という自覚を強めている。この数日、それに向き合うために、その人と共有する空間に身を置いていた。文字通りの息苦しさに、喘息が出た。決して、わたしが被害者で相手が加害者、とかじゃない。学びは、こうだ。

 それがどんな立派で正当な信念からであっても、一挙手一投足を見張り不満に思いそれを表すような言動は、意識的・無意識的なものにかかわらず目の前にいる相手を委縮させるものでしかない。ある人の表現されるべきことは、それの受け手となる周りの人のほんの少しの懐疑や否定的態度で、隙間から出した顔を瞬間的に、引っ込める。そうして、暗闇のなかで鬱鬱と、表に出る手段とタイミングを計りかねて沈殿する。澱は層を成し、化石燃料のように後世に課題を残す。表現されるべき感性の陰と、受け皿となるべき理性の陽の間に隙間ができ、ギャップが広がれば広がるほど、そこを往復する胸の内の摩擦は大きくなり、擦れた陰陽は物理的に肺胞に炎症を起こす。――ぜんそくの、できあがりだ。


 わたしたちは、心の中とこちらの世界に橋を、かけなくてはならない。

 その橋をよくメンテナンスして、ご利益が天下に知られ参詣者絶えない参道のように、ひろく、ひろく開いておくのが、最大の社会貢献――少なくとも、言葉や音楽や絵画もろもろの手段で表現されるべきことを多く抱える、あの子やあの人やあなたには。

 ひとが欲しているのは 自由と、それを可能にする満たされた心だ。

 心満たされるのは、周りのひとたちがあなたを何が何でも、肯定してくれるときだ。人を殺しでもしない限り、あなたの身勝手なんて宇宙においては屁みたいなもんだ。つまるところ、大したこと、ないんだよ。自分勝手で、いいじゃないか。あなたが幸せに生きていることこそ最大の貢献だ。あなたが努力しても報われない世の中なんて、世の中の方が何かおかしいんだよ。多数派が言ってるから正しいなんてことは人類の歴史上なかった。先生も親もちゃんとほんとの意味で歴史学んでたら、こんなことにはなってないよ。テストのためのおべんきょうなんて時間がもったいないよ。あなたの時間に、あなたの好きなことに、全集中して生きて、いいんだよ。

 いいかい、おかしいのは社会の方だ。まっとうなシャカイジンなんてロボットじゃあるまいし、砂に書いたラブレターぐらい甘酸っぱくてへそで茶、沸かしちゃうような概念なんだ。感受性豊かな人間らしい人程、病むようになっちゃってる世の中のメインストリームの方が、控えめに言ってよっぽど変なんだ。不適応にヒキコモリにうつに、なる方がよっぽどまともなんだよ。安心して、毎日、堂々と息をしていてほしい。少しずつ、吸える息吐く息を大きくして、そうしたら、居場所は必ずあるから。居場所はいまの大人の世代の誰か心あるひとたちが、愉しくつくって、おくから。どうか、安心して生きていておくれ。


 つい、熱くなってしまったので、久方ぶりの喘息で強く感じていることを、少し冷静なことばで、まとめておきたい。

 わたしたち大人の今の役割は、どんな繊細な子どももその口を閉ざすことなく居られるように愛を向けてあげること(執着でもコントロールでもないやつ)、そしてその子に適した自己表現の手段が見つかるよう、一緒に人生を旅してあげることではないか、と思います。そして、それを可能にするのはほかならず、わたしたち大人自身が諦めないで生を全うすること。その中には何か社会的な課題を解決する人もいれば、次の世代を残していくというお役目の人も、今までの社会構造を維持してゆく機構の維持を役割とする人もいて、本当にそれぞれで、それぞれが恥じることも臆することもなく、生きていてさえいたら、万事オーケー、なのだと思います。

 ただ一つ心に留めておきたいのは、自分の理性だけを戦場に駆けて行かせるだけでなく、植物のようにそれ自身では動くことも言葉を発することのできない自分の感性の部分の声にそっと耳を傾け、かの女に何らかの声を、この現実世界で、与えていて欲しい、ということです。子どもがそれを自然にしているのを許せるよう、まずは大人の方が。

 自分のなかの女性性と男性性に、陰陽図のような良好な関係を保ち、他人のなかのそのような蜜月を祝福こそすれ、邪魔をしない。

 成熟した大人は冷静な肺胞を保つ、そんなことを想う、咳の秋です。



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#いのちのじかんのまもりびと  という本を、翻訳しています。





 

 

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