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ひふみのよ(がっこうの功罪)

ひふみのよ

ひふみのよ かひがひしく
いと たわむれに かきみだすこと
その意ありしになれば,

ゆへゆへに 
おのおののめい こころをきたらめこそ
いみじくも めでたし.

いまいま ゆめゆめ
おこたらず
ともにはげまむ.

千智


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 がっこうは、わたしにとって、不要な枷をはめるばしょであった、と、いまふりかえっておもう。授業、漢文書き下すところの「業を授ける」だな、と、教壇に立つようになってますますおもう。その無邪気で無慈悲な制度は、家系から生得のカルマを「そだち」としてくっきりと浮き立たせる。  

 一方。

 天は試練と蜘蛛の糸の両方を垂らすことを、忘れない。

 どんなにしんどい過酷な状況にも、必ず救いや乗り越える術が見え隠れしていて、それを心正して受け取りぐっと辛抱して精進するか、文句を垂れたれ他人や自分の心を責め苛むところに居着くことを選び続けるか、の二択は、その間のさまざまな選択肢のグレーゾーンもしくはすぺくとらかとして、当人の前に転がっている。

(蛇足だが、その二択があることに気づかせるための一助になるのが、きょういくの主要な役割の一つ、なのではないかとおもっている。)


 まだまだ重いその枷に、恐れおののく心は、ともすると愚痴と恨み節のオンパレード(苦笑)になりがちで、やさぐれ荒み、それを抱えていないように見える人への羨望を夢のなかでさえ抱かせて見せてくれる。そんなときに思い出した校歌が美しく心救われる想いがして、古語で書かれているから高校のかなと振り返ったら小学校のだった。

 みなさん、そういう砦をどこかに築けたらそれは永劫に同胞の助けになるのです。そういう思いで、こつこつと勤勉に、働き、手足がまだ重たければ自分を養生することに精進したらいい。そう、振り切る手助けをしてくれた、我が母校 仙台市立南小泉小学校の校歌です。

・・・

このしたつゆに 勝りて刺激
文化の恵み 身に受けながら
新しき国 築かむわれら
げに 生ける しるしありけり

みやぎの野原 広しといへど
行けば果てあり 限りも知らぬ
学びの道に 分け入るわれら
たゆみなく ともに進まむ

南小泉 その名にそいて
強きちからも つきせずわけど
心と身とを きたうるわれら
勇ましく ともに励まむ

・・・


この校歌のように、どんなこどももなめずに、立派な素養をもった人格として扱う度量を先生に涵養することを第一に、

教員養成を行い、

教員採用試験で人材の選抜をしたら、

この国のきょういくの問題はほぼ解決すると思う。ちがうかな?

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