胸のこけらの落ちるとき

 胸の詰まりがグググっと落ちて,ホルモンだか何だかが身体の上から下へ駆け巡り,安堵からかくたくたっと脱力して動けなくなるような瞬間が一年に一度か二度位,訪れる。

 何か一つ,無意識の領域でクリアして,おそるおそる崖に手をかけ足をかけしていたのが,柵に守られたプラトーにたどり着いて「ああ,ここから足を踏み外す心配はない」と休息するような心の置き所。

 仕事やプライベート面の繁忙期に訪れることもある,この,あくまで何か精神的な面での「乗り越えた」感は,いつも不意に私を襲うから,不用意な意識は豆鉄砲を食らった鳩のように,あれ?と首をかしげる。

 「はてわたしは,何を消化したのだろう?」

 そいつが奇襲をしかけてくるときは決まって感情の嵐のさ中か,その前線に足をかけかけている。何でもないことでも涙してしまう。

 大阪なおみさんの記事を読んで,喫茶店で不覚にも涙が出た。たしか彼女がそのマイノリティであるルーツを力にしてプレーをしていて,近年では以前にも増して自分のアイデンティティに向き合っていらっしゃる,といったことが書いてあったと思う。

 一体,何がわたしの心の琴線に触れたのか。

 意識で感知できる範囲で,考えてみた。

 娘たちはアラビア人と日本人の両親をもつ,いわゆるハーフである。――そう,大阪さんの記事では「私は日本人とハイチ人とアメリカ人のミックス」と言っていたのだ。多分,このあたりだったんだろう。

 特に長女は,あまり押しの強い方ではなく,集団のペースやルールのあれこれと自分の中のそれらを,言葉や何かで折り合わせてゆくことが上手な方とも言えない。外側からの刺激に凹みやすいし,立ち直りもゆっくりだ。

(小学校へ入ったころよりはだいぶ,成長してはきたし,母もこうした点においては人の事を言えた身分ではない,ということを申し添えておく)

 10歳の彼女がこれから多感な年ごろに突入していくにあたって,果たして自分のルーツを,誇れるものとしてアイデンティティに統合していってくれるものだろうか?

 たぶん,心配している自分がいて,かといってその答えは「雨降って地固まる」的なハードルを予期しつつ,彼女を信じて見守っていくしかないのだけれど。

 ステイホームの年末年始で,必死でサンタ代行業をしたり(我が家は大晦日に到着),昨学期に応用行動分析で習った方法で子どもたちと積極的にかかわり,ひたすら彼女たちと居る中で,見えた境地がある。

 それは,10歳女子を見ていて子どもの時期の有限さを実感したことで,思い切って子供たちと遊びまくり,それが楽しいと思えたことである。子どもたちの成長のために目を配り手をかけることで,その成長が見える体験ができたことが,大きかった。

 おかーさん10年目にして,ようやく。ありがとうステイホーム。

 今回落ちたわたしの胸のこけらがこれだったのかは定かではないけれど,これに近いところなのかな。

 おかーさん業の発見については,また言葉に起こしたいと思います。

 今日はこれにて。




 

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