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ややこしや。承認欲求とカサンドラ

他者による承認や共感をある程度求める自分がいる。

ややこしいな、と思う。

誰かに「聞いて~!」と言って、聞き手を得て口に出してしまうと、心の中に大事にしまい込んで重たくなってしまいそうな一連の思考や思いが、軽くなるような気がする。トピックの大小はあれ、それは確か。

その時、相手の聞き方はどのぐらい問題になるんだろうか。

「そうなんだね~」と気持ちを察してもらえたような気がしたらそれこそ思いが昇華されるような気持ちになるだろう。

右から左、の上返事でも、そうか、と調子を汲んでもらえたら、話す対象として機能してもらえたなら壁に話すよりもずっとありがたいだろう。貴重な時間を有難う。

「そうなんだ。でもそうかな、僕/私ならこう思うだろうな」利害が絡まない距離感のある他者なら、それは貴重な視点として受け入れられるだろう。

だけど、ことパートナーとなると、一定の正解を期待してしまう自分がいるような気がしてならない。

例えば、1歳児の子育てをしているカップルだったとして、典型的で申し訳ない気さえするが、仮に片方が女性で、授乳の都合もあって彼女が主に赤子を看ており、もう片方は男性、昨今の社会的状況からフルタイムの自宅勤務だとする。

彼女は夜泣きで中断される睡眠を含む休みない育児に、負担感を感じているが、そんなある日有給を取った彼は実家の両親に一人で会いに行くことになる。外出、あんまり赤子連れでしない方がいい外的状況もあって、彼女は家に赤子と二人、留まる。一日の様子はご想像にお任せする。

夜、彼が帰宅する予定の時間が近づくが、彼には電車に乗ったとも何時に着くとも音沙汰がない。たまらなくなって何度か電話をするし、メールもするけれど、つながらないし返事もない。

永遠とも思える帰宅予定時刻の1時間後、彼は「サプラ~イズ!」と言いながら満面の笑みでお土産を携えて帰宅。

ここで彼女は思わず語気を強めて言う。

「どうして電話に出てくれなかったの!?心配したのに!何がサプライズ?一日、大変だったし、これまでもずっと、一人で大変だったの…!」

彼曰く

「俺だって自分の家族のことで大変だったんだよ!それを理解してくれないわけ!?何て冷たいんだ!ちょっと驚かせようと思っただけじゃないか!俺だって会えるの楽しみにしてたのに」

ここから、彼女が「あなたの家族のことは承知してるから一人で行かせたけれど、私たちの子供の世話を休みなくしていたのは、私なのよ」となり、水掛け論の喧嘩に発展したのは想像できることだろう。

これは実は、若干設定を変えているが、私と夫の間に起こり、繰り返しなぞってきたパターン。

こうして書き出すと、女性側も普段から小さなヘルプを(積もり積もって感情的になる前に)具体的に伝えて来ることが必要だったのがわかるし、一方で彼が彼女の感情的な発言をちょっとでも受け止めてくれる言葉と態度のクッションをさしはさむことができたなら、彼女の心は行き場を失わなかったのではないか、と改めて思える。

ここ数年発達障害のことを学んできて、自分にもADHD特性があることが分かったし、夫もアスペルガー(自閉スペクトラム症)特性に近いものを持っているんだろうなー、と何となく、感じている。

彼はそのせいか、共感を示したりするのが至極不得意だ。

この出来事があってからのこの5年の間、繰り返し「私は解決策を提示されるよりもただ、そうなんだ、と話しを聞いてもらいたいことがあるの」と伝えてきた。

彼が学んでくれたレパートリーは「ただ黙って聞く。何も言わない」か、「ソウナンダネ」「タイヘンダネ」という片言の気の入っていない、それでもアラビア語母語話者の彼には恐らく精いっぱいの傾聴の表現。

なぜか私は「聴いてもらった」感じがせず、そのあとに彼が彼の論理をさしはさむのすら、否定されているように感じるようになってしまった。それはきっと、私が受け取りたいように受け取っている、ということなのだろうけれど。どうしたらいいんだろう?本当に。

ここ1年で、カサンドラ関係の本を数冊読んでいる。結構夫悪いVS妻ヒガイシャ構造で書いてて、じゃあどうすればいいのさ…とやるせない気持ちになるような本が、結構多いような気がする。

お家が「安全基地」として機能することの大切さ、もしそうでなければ(DVなどの心身の危害がない限り)安全基地や承認欲求を、家庭以外の人間関係(具体的に書いてないところがえー!ってなった。つまり仕事やボランティア等々ってこと?)に求めて物理的な生活を維持するように勧めるもの↓や、

自己犠牲ではなく「自分の心」を大切にするために、家族の形を同居、別居、離婚に分けて紹介するもの↓があった。こちらの本は、生活を共にして心を寄り添わすことができない寂しさが著者自身の体験からも随所に描写されていて、図らずも久しぶりにまぶたを腫らすほど涙が出た。

結婚生活も11年。彼と距離を取ろうと子供を連れて引っ越したこともあったし、事務職ではなく自分の得意なことで職を得ようとしたり、自分の心をどうにかして踏ん切りをつけようと講座を受講したり。

いずれも実を結んでないのは、どこかでこの形にしがみついていたり、それを体よく利用するのでいいじゃない、と思っている自分がいるような気がする。

何か、納得がいかない、肚が決まっていない、宙ぶらりんの感じ。
もう、正直どうしたら良いのか自分の心が分からなくなってしまって、ここ数か月悶々としている。

それは言語性知能をフル活用して、自分を責め苛むのに最適すぎて心によろしくなさ過ぎてもう草 って、笑い飛ばしたくなる


他者承認なんてあまり必要としない自分になれたらいいのに。自己承認を求めて充足する、アドラー心理学推奨の生き方。生い立ちで満たされなかったとこを、自分だけで満たすことはできないんだろうか?現在の一番の疑問。


ともあれ、ヒガイシャに自分を仕立てずに、どうにか乗り越えてきたい。

How to work it out?


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