衝動性と希死念慮ではないなにか
精神科の待合には普通に見える人がたくさんいて、みんな見えないところで苦しんでいる。私もきっとその1人なんだろう。ふと思った。
そうは思っても世間から見た私という人間は異常者であることに変わりはない。気づいた時にはあもう急に思考がありえないところまで飛躍しては整合性もなくぐるぐる回っていたし、皆には聞こえないものが聞こえるし見えないものが見えている、衝動的に危ないことをしてしまう。気分の上下が激しくて、気分のせいで外に出られない日だって時々ある。普通で正常だった時なんて私の人生でなかったと思う。
きっと私と同じ人がいると信じているが、私は幼い頃とか物心ついた頃から潜在的な意識の中で死に対して前向きだった。なんでだか素晴らしいものなんだと思っていた。理由もきっかけもわからない。ずっとずっと死んだ人はいいな、死ねたんだもんと生意気ながらに思っていた。そんな考えを大っぴらにしていたらきっといろんな人を不快にしていたと思う。当時は本気で死にたくて死ぬ人が少数だなんて知らなかったのだ。なんだか自分のが高尚だと思っていたはずのことであるはずなのに言葉にしてしまうととっても厨二病みたいで薄っぺらくなってしまうんだなと書きながら思った。きっとずっと純粋に異常だった。
いつからか生きているだけで息苦しくなってきて、(きっとそれが病気の症状なのであろうが)死ななくてはならないと謎の強迫観念から何回も死のうとした。こんな文章を書いている時点で自明であろうが成功することはなかった。死ねなかった。いろんなものに勝手に傷ついているだけの私を殺してくれる人はいないことに気づいた。生きるのもこんなに下手なのに自分は死ぬのも下手なのかと何度も思った。何度も何度も見えもしない人の目の前でうずくまりながら自分でも訳がわからないままごめんなさいを繰り返して泣いた。当然許してくれるものはなかった。何かに謝る日々は私の睡眠時間を削り続けた。
初めて自殺未遂をした日のことはもう思い出せない。回数すらもう覚えても数えていない。薬を大量に飲んで首を吊って意識を飛ばす。いつしか確率的に死ねるのではないかと思いながらも意識が戻って、また苦しんで生きていかなければいけないんだと肩を落とす。毎日そんな生活を繰り返しているうちに、中々成功しないこの方法のコスパの悪さに呆れた私はふと確実に死ねるであろう方法で大きな未遂をし、申し訳ないことに初めて警察のお世話になってしまった。流されるままそれまで行ったことのなかった精神科という場所に救急的に運ばれた。その時あなたのそれは病気で、治療をすればそういう危ないことをすることもなくなるからねと眼鏡をかけた福耳の院長に言われた。もう何を信じればいいかわからなかったのだ、私はその言葉をそのまま信じた。その日に食べたセブンのサンドイッチは味がしなかったのになぜか忘れられない。毎日叫び声が聞こえ、1ヶ月外に出れず、その後2ヶ月もほとんど外に出れずスマホさえ1日15分しか触れない場所で生活していたら息苦しさはみるみる消えていった。入院生活のおかげもあったと思うが、ほとんどは薬が私を常人に近づけてくれているだけだと思う。薬でコントロールされた私って、本当に私なのかな。
退院してから前のような息苦しさを感じることは少なくなっていた。確実に生きやすくなっていた。それでも死ぬことに対して前向きである思考は変わらなかった。私は身勝手にも精神科ではそういう思考も治っていく、もしくは治してくれるものだと思っていた。この思考ごと消えて普通に生きていけるものだと思っていた。だって治療をしていけば危ないことをしなくなるはずだよ言われたのだから。たしかに死ななくてはならないといった幻聴やら強迫的な思い込みは無くなっていたと思う。でもそれは病気的な希死念慮といっただけで本来の思考に植え付けられている考えなど治りようがないんだと気づいた。私の純粋な思考に死に憧れる気持ちがあるだなんてきっと主治医は思っていなかったのであろう。彼はおそらく私の死にたい気持ちが全て病気からきているものだと思っているのだ。自分がそうだったというだけだが、自殺未遂を繰り返している人に私とおんなじように素で死に対して前向きな人がいるはずだと謎の自信があるのだ。
今でも、時々衝動的になって死ぬ危険のある行動をしてしまう。強いて死にたいと思っているわけでも気分が落ち込んでいるわけでもないのに、自分では生きている限り生きていたいとはっきり思っているはずなのに。恵まれているのに、死ぬことだけがこの世でとっても高尚なものに思えてふと衝動的になってしまうのだ。衝動的なだけに計画性もないのでそれほど大事に至ることもなければ、翌日にはケロッと朝の電車に乗っていられるようなその程度の意味のない行為だ。気が狂っていないときは死んだ時に人にかかる迷惑が恐ろしくてたまらなくって、失敗しては安堵している。いっつも使っているネクタイもベルトも私を殺してくれることはきっとこの先もないだろう。
大人はみんな死の話題になると不謹慎だという顔をする。確かにしないほうがいい話題だってわかっている。でもなんでしちゃいけないのって小さい頃の私がまだ頭の中で騒ぎ立てている。その声がはだんだん大きくなっていく。その声が今私に文章を書かせている。ここまで書いて気付く。あれ、これってきっと幻聴だ。お薬飲んだら聞こえなくなるからね、看護師さんが言った言葉を思い出した。薬を飲もうと思って、袋からリスペリドンを取り出したところで薬で幼い私を殺してしまうのが怖くなった。危ない幻聴ってわけでもないし、多分もうそろそろ聞こえなくなるだろうしいたまにはいいでしょ。もう少しだけ一緒にお話ししてようね。小さい頃は話を聞いてもらえない子だった。こうやって自分を今慰めているのだと気付いた。
今でもずっと考える。子供みたいなことをずっと考えている。死んだら、しんだらどうなるんだろう。きっと何にもなんないんだろうな、と最近は思うが、いかんせん私という人間は1回も死んだことがないのだから知っているはずもない。痛いかもしれない。苦しいかもしれない?でももしかしたら、ひょっとしたら、気持ちいいのかもしれないな。死ぬことって本当に忌み嫌われるものなのかなあ。だって私たち、きっと会いたい人に会えるのよ。もういない人のことを考える。私を愛してくれたおじいちゃん、会ったことのない私のおばあちゃん、大好きな感情を抑えきれない赤い髪のギタリスト、とっても魅力的なあのベーシスト、憧れてやまないブロンドの女優。会ってみたい人はみんな私の手の届かないところにいるのだ。そのうちの誰かが今夜私の手を引いて連れていってくれてもいいのにな、そう思いながら今日も私は眠剤を頼りに眠りにつくのだ。
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