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伍佰

 アルセーヌ・ルパンの孫が乗っていた、と記憶している。

 日本語で、五百、を意味する、伊語でいうところのチンクェチェント。

 その、黄色く、丸いボディが、わたしたちの眼前を疾駆する。

「あの車に乗りたかったんだ」

 君が運転席で、云う。

 わたしたちは、交差点の赤信号で、停車している。

 君が、頑張って買った、黄色のチンクェチェント。

 最新ではないが、ごくごく最近のモデルだ。

 今、目の前を駆け抜けた、チンクェチェントは、ヌォーヴァ、と呼ばれる車だ。

「どこで手に入れたんだろう。わたしには、見つけられなかったのに」

 君が、残念そうな声色で、しかし、好奇的な面持ちで云う。

「ヌォーヴァはどのくらい古いの?」

「彼は、チンクェチェントの二代目。57年発表、77年生産終了」

「なるほど」

 ずいぶん古いな。

 それでは、メンテナンス費用やガソリン代は、馬鹿にならないだろう。

「うん、そうだけれど……わたしは、やっぱり彼に乗りたかった。
 ジアコーサのデザインが好きなの」

「ジアコーサ?」

「ジアコーサは、チンクェチェントの生みの親よ。フィアット社の技術主任だった」

「そう……」

 少しの沈黙の後、君が、ステアリングを撫でる。

「とはいっても、今のこの子も気に入っているわ。よく走るし、かわいい
 ――相棒みたいなものだもんね」

 信号が青に変わる。

 君がギアを入れて、アクセルを踏む。

 君が、ミッション車にしたのは、

 少しでも、チンクェチェント、を味わうためだったのかもしれない。

 天井のルーフが開く。

 車の加速に合わせて、勢いよく流れ込む風が、心地よい。

 このルーフは、もともと、ヌォーヴァのエンジン音が凄まじいために、

 その騒音を車外に逃すために、設計されたものだ、

 と君が云っていたような気がする。

 この車には、やかましすぎるエンジン音もない。

 アルセーヌ・ルパン(孫)一味がぎゅうぎゅうになっていた、車内の窮屈さもない。

 現代の快適さは、現代の車だけが、持ち得ている。

 わたしは、この車でよかった、と、

 君を裏切りたくないので、静かに、思った。

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