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絵、むずい

 夜にまぎれた君は、影と同一化してしまって、

 ひどくわたしを不安にさせる。

 そのままとけていく場面をわたしは目撃できないまま、君を失ってしまうのではないか。

 それだけはご免だから、わたしは君だけをくっきりと描きだす。

 たぶん君に怒られる。

 でも、そうすることにする。

 絵を描くのは、特殊技能だと思っていた。

 だから生まれてこのかた、わたしは絵を描いたことがなかった。

 実家には幼いわたしが鉛筆を走らせたスケッチブックがあるだろうし、

 授業で描いた絵は探せばでてくるだろう。

 でも、前者は身に覚えがないくらいおおむかしのことだし、

 後者は、しぶしぶ筆をとった絵だ。

 苦手意識が芽生えたのはいつなのかはもう判然としないが、

 苦手科目ができたり、嫌いなクラスメイトができたのと同時期だと思う。

 感性が磨かれている途上の時期の子どもには必要な分別だから、

 そうなってしまったことを今更どうとも思わない。

 でもわたしは決定的に、絵は苦手だった。

 描ける人は、神様のデザインに贔屓があったのだと思っていた。

 だから、わたしの人生に絵を描くことはまったく必要でなかったし、

 絵についてどうこう考えたりすることもしなかった。

 しかし、大人になれば自分の意思の外から現実が舞いこんでくるもので。

 状況が一変したのは、新しく配属された職場に、少し慣れてきたころに回ってきた仕事が原因だった。

 その仕事にわたしはリーダーとして抜擢された。

 わが社は広告代理店だからもちろんコマーシャルの仕事だ。

 ある商品を宣伝するのに、クライアントがどうしてもこの画家を起用して欲しい、

 そう望んだのだった。

 はじめて彼女に会った日を、わたしは死ぬまで忘れることはできないだろう。

 待ち合わせのカフェに、先に入っていると連絡を受けたので急いだが、

 そこに彼女の姿はみえなかった。

 ウェイトレスに待ち合わせの旨を伝えると、困り顔でわたしを案内してくれた。

 歓楽街のメインストリートに面した、ウッドデッキのテラス席。椅子には筆を洗うらしき容器が鎮座していて、本人はというと床にあぐらをかいていた。

 彼女が筆を走らせていたスケッチブックをウェイトレスと一緒にうしろからのぞきこむ。

「たいへんお上手なんですが、その、床にお座りになるのは……」

「すみません、云っておきますので」

 わたしは大慌てでそう口にのぼせたが、初対面の人にどう云って聞かせればいいのか、内心当惑していた。

「あの」

「ちょっと待って」

 開口一番すぐに遮られた。これがわたしたちのはじめての会話である。

 たぶん今まで注意しに来た何人かの従業員も、こうやって門前払いにされたのだろう。

 しかし、ウェイトレスに云った手前、ようやく連れが来たと安心している従業員たちの手前、簡単に引き下がれそうにない。

「その、床に座るのは、あまり。店の人も、困ってます、よ?」

 連れとはいえ、ほぼ見ず知らずのの九割方他人である。きつく注意はできない。

「うん――おっと、打ち合わせの人、あなた?」

「ハイ、そうですお待たせしました」

「ごめんね、もうちょっとだけ待って」

 彼女はそういって、とりあえず椅子に座った。水桶のない方の椅子に。

 待った時間はお世辞にもちょっととは云えないあいだで、座る場所を失くして、かといって水桶を退けるわけにもいかず、立ち尽くすわたしをみかねたさっきのウェイトレスがだしてくれた新たな椅子で、それなりの時間待ちぼうけた。

 しかし、彼女の真剣な眼差しは美しいと形容するに抵抗がなかった。

 マナー違反でも、変人でも、それはいちど棚の隅においやってあまりあるほど、美しい光景をみた。

 ついに三十分近くかかって絵が完成したようで、彼女は「なんの話だっけ?」とこっちの気も知らずに軽薄な調子で訊いてきた。

 結局この仕事は大成功で、いくつかの広告賞にノミネートされることになったし、授賞式には彼女とともに登壇した。

 その日、わたし達は付き合うことになった。

「うまく描こうとするから、そんなさみしい考えが浮かぶんだよ」

 君はいつも云いふくめた。

「たしかにうますぎる人は、天才かもしれない。あるいは努力する才能を持った秀才かもしれない」

 君は続けた。

 でもね、絵は文字と一緒で別にうまくなくたっていいんだよ。

 文字は崩壊していない限り、どれだけ下手でも伝わるでしょう?

 それに、文字は伝えるためだけのものじゃない。

 自分が読めたらいいだけときの方が多い。

 絵も同じさ。

 自分が見るために絵を描きなさい。

「わかった?」

 その日からわたしは絵を描くようになった。

 君からわたしの小さなカバンに入る、ポケットサイズの手帳をもらった。あと消しゴムのついた鉛筆も。

「初めはそのふたつだけで描くこと。描くタイミングは、自分の心に任せて」

 わたしは君の他に車が好きだったので、じきに、そのノートはだいたい君と車で埋まった。

 ときには下手すぎて泣きたくなるときもあった。

 正直、そんなときの方が多かった。

 でも君のアドバイスは的確だった。

「うまさを求めなければ、苦しくないよ」

 それよか、なんとなくそれっぽかったらそれでいいのさ。

 君の場合は、たぶんね。

 ディティールじゃなくて、全体像をつかんでみな。

 シルエットだけを観察したら、あとは線を重ねてそれっぽくする。

「それと、せっかく小さいメモ帳渡してんだからさ、小さく描きなよ」

「え? 小さく描くの?」

「小さく描いたら、うまく見えるよ」

 その通りだった。線を引く長さが短いから、手つきが稚拙でもなんとかなった。

 ピアノと同じようなもので、初めはリズム感も運指も下手くそだから、早く弾けば、それなりに聴けるものなのだが、ゆっくり弾いたらカエルが鍵盤を跳ね回っているみたいになる。

 ほんとうに上手な演奏家は、1/2倍、1/4倍のテンポで精密に音を並べられる。

 委細を明確に表現するのは、熟練してきてからの芸当なのだと改めて思い知らされた。

「水彩、やってみる?」

 透明水彩って云ってね……と新しい絵の具について説明してくれる君の横顔を思い出す。

 初めて透明水彩に触ったときは、楽しくて仕方がなかったが、そのころから君のしごきが始まった。

 今日は、夜中の道端でアウトドアチェアーを出して絵を描いている。

 君は道路の向こう側に座っている。

 大きな木の真下に座って、その影を一身に受けている。

「暗黒の中で、限られた照明だけを頼りに、ものの色彩を表現する訓練だ」

 君の色彩はほとんど闇に吸い取られている。

 白い肌も、短い赤茶の髪も、絵の具が飛び散った前かけも、ほとんどわたしの眼に反射してはくれない。

 ゆいいつ、透き通る眼光だけがわたしを刺すのを感じるだけだ。

 わたしの絵には、君はシルエットでしか描かれていない。

 中身が全て溶け出た後のように、針金のような外枠だけが絵の具の下に残っている。

 それは恐ろしい描写だった。

 顔を上げると、君は微かにそこにいる。

 わたしが見ていることに気がついて、筆を持ったまま手を振る。

 君の集中の内にわたしが這入れるようになったのは、恋人の特権だ。

 でも、絵の中の君は集中する脳もなく、筆を振るう腕もなく、みずみずしい絵の具だらけの肌もなく、何もない。

 それはものすごく怖いことだった。恋人が目の前からいなくなるのとは違う。

 目の前にいるのに、何もないように描かれることが恐ろしかった。

「現実を全て描写するのは無理だよ。取捨分別しないと」

 君の云う取捨分別の、捨てる方に君が入っていることが、どうしようもなくわたしを責めたてた。

 他の捨てられる方は、この場合、なんとも思わなかった。

 構図決めのときに、わたしの大好きなアルファ・ロメオ・ジュリアが停まっていたからこの場所にしたのに、

 ほとんど描かれない鮮烈な赤は、この際どうでもよかった。

 君を描きたかった。

 教えにそむいて怒られるのでは、とびくびくしつつ絵を見せた。

「――もう教えることは何もない」

 困惑するわたしに「云ってみたかったんだ」と君が笑う。

「守破離という言葉があってね、教えを守り、理解と試行錯誤の上に型を破り、新たな型を創り今までの型を離れる、という修行の三段階のことなんだ」

 この絵はいいよ、そうつぶやいて君は続ける。

「君は、自分の感性に従ってこの絵を描き上げた。もう十分だね」

「ちょっと、なんだか別れの科白みたいなんだけど」

「実はね――」

 まさか、本当に別れの――?

「来週からアニメーターになるんだ」

「はあ?」

「ナイショで通信教育で勉強しててさ、今日仕事も決まって」

「はぁ」

「だから、来週からホント忙しくなるけど、ヨロシク!」

 よし、帰ろう。と云って、君は車のエンジンを始動させる。

「ちょ、ちょ。ヨロシクって何がさ」

 ギアを手早くサードまで押し上げ、もう幹線道路に出ている。

 夜道の煌々とした灯りの数々が、流線になって颯爽と後ろへ消えていく。

 アスファルトを駆るタイヤの音と、エンジンの駆動音が室内に響いている。

「そりゃあ、君はもう型を離れたんだから、あとは自分の心だけで自分の絵を磨くのさ」

「えー、そんな。突然ひどいよ」

「人生はいつも突然でしょ、ねぇ」

 顔は前を向けたまま、一瞬わたしに目配せする。

「まぁ……」

「わたしはずっと走り続けるけど、いつも後ろを振り返るよ」

 その言葉が、深く車内に落ちた。

「後ろには、自分が歩んできたいろんな史跡があって、そこを訪れている別の人がいたりするから」

 そして、わたしもまた、誰かがそこを通った後に訪れたひとりだから。

「だから、絵がむずい、と嘆く人が君の前に現れたら、きっと君は振り向くだろう」

 そうやって、順繰りにひとびとの中の世界がひろがっていく。

「絵を描く行為は、究極の観察。視野をこじあける作業」

 視野が広がれば、いままでぼんやりと捉えていたものを、ずっと委細にくみとれるようになるでしょ?

 見えている世界は変わっていないけれど、視えるものが変わる。

 それは、世界がひろがるということ。

「世界は、広大さ」

 たとえそれが小さな箱庭でもね。と君は付け加えた。

Kise Iruka text 117;
not easy.

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