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電脳哲学

 忘れるな、帰る場所があることを。

 深追いするな、

 ホシも、思考も。

 皆がこの言葉を励行し続けられるのならば、

 警察学校の至る所に張り出されないし、

 教官も口を酸っぱくしない。

 ノイズの多いネオン街を抜けて、

 ギークの村に這入り込んだ。

 ある場所に、ぽっかりとノイズがなくなり、

 データ密度が急激に増加するポイントがある。

 わたし達はデータ密度を計測できるソフトを使い、

 その場所を目指した。

「こっちに配属されて何日だっけ?」

 わたしはモニターに注意を払いながら訊く。

「まだ四日です」

「そう、いつもの文句を忘れないでね」

「先輩、わかってますよ」


 時々、わからなくなる。

 人々は、起きている時間のほとんどをネットの中で暮らしていて、

 全感覚没入で仕事をする企業もある。

 趣味で、家に機械を揃える人もいる。

 わたしは職業柄、

 非番の時以外の、全ての時間を没入機に横たわって過ごす。

 サイレンが鳴ると、すぐに没入してネットの世界の治安を維持する。

 そんな生活をしていると、

 時々、わからなくなる。

 どっちが本当だったっけ?

 今いるのは現実だよな?

 その度に、あの文句を思い出す。

――忘れるな、帰る場所があることを。――

 没入機のフタに貼ってある。

 見ればわかるようにしておかないと、本当にわからなくなってくる。

 あと、正しい情報は叩き込めるだけ、頭に叩き込む。

――深追いするな、思考も。――

 端的に思考を終わらせるために、特に調査資料は深く理解しておく。

 情報は、いつも現実的だから。

 この二つを疎かにしたせいで、

 殉職した仲間を何人も見た。

 身体はあるのに、中身がないんだ。

 中身だけが帰る場所を忘れて、

 間違った「現実」に落ちていく。


 久しぶりに持った部下を少し心配した。

 まだ若い。幼いくらいだから。

 目的のビルに這入る。

「サイトマップは?」

「ここ、不可視です」

 彼女は、共有モニターの一箇所をマークする。

 わたしは素早くアクセスを確保する。

 巧妙に隠された階段が姿を表す。

 二人で長い階段を登る。

「これ、ループしてませんか――?」

 しばらくして、彼女が口を開いた。

 確かに、ずいぶん長い階段だと思った。

「うん、してないはず」

 すでに確認していたから、そう答えたが、もう一度確認した。

「――ナイスタイミング。この階段無限だ。そして、ちょうどここが二つ目の隠し扉」

 彼女の勘に感謝して、ドアを開いた。

 今回は、海賊版サイトのオーナーだ。

 逃げ道は作っていない。

 穏便に、身体の居場所を教えてもらう。

「なあ――刑務所には没入機はあるのか?」

 オーナーが突然口を開いた。彼女が応えた。

「ありませんよ。中毒ですか? それなら先に更生施設にいくことになります」

「そうか、行きたくねえなあ。こっちはなんでも叶っちまうからなあ」

「夢はいつか終わるものですよ」

「あんた、死んだばあちゃんの夢はもう見ねえのか?」

「祖母の?」

 彼女が、初めてオーナーに顔を向けた。

 オーナーの目は、魔術師のようだった。

「祖母のことを夢に見ない日はありませんよ。あの家の匂いとしゃがれた声」

「だろう? 俺は、お前のばあちゃんを知ってるぜ」

「え」

「ほれ」

 彼女の祖母らしき人が、部屋の片隅でロッキングチェアに腰掛けていた。

 わたしは、いけない、と思い情報障壁のレベルを上げた。

 モニターを見ると、彼女とオーナーを高密度の糸が結んでいた。

 古典的だがハイレベルなフェイクだった。

「幻想よ。目を醒しなさい」

「そんなことないよなあ?」

「おばあちゃん――まだその本を読んでたの」

 ロッキングチェアの老婆は、装丁のしっかりした分厚い本を読んでいた。

 その風体から懐かしい感じがした。

「これはお前のばあちゃんだろ。俺と一緒にくれば、いつでもばあちゃんに会わせてやるぜ」

「ほんとに」

 わたしは、情報障壁を超えてくるクラッキングを防ぐのに精一杯だったが、

 ふと気がついた。

「待ちなさい、あなたのお祖母さまは存命よ。○○年生まれでまだお若い。それのように年老いていないはずよ」

 刹那、糸が切れた。

「ちっ」

 とオーナーが舌打ちすると、彼女が倒れた。

「お姉さん、現実は楽しいか? 俺には全部退屈に見えるね」

 云って、オーナーは現実へと送還された。

「もう、祖母の元に帰れないところでした」

 わたしは彼女にコーヒーを渡してやる。

「先輩はどうして知っていたんですか? 祖母のこと」

「君の資料を読んでたから」

 彼女は、ありがとうございます、とうなだれた。


 現実に見切りをつけた人は多い。

 特に面白さもなく、思い通りにいかない世界は耐え難い。

 実の所、わたしだってネットの方が好きかもしれない。

 半分くらい自分の思い通りになる世界は、嫌いじゃない。

 でも、人は人である限り生きなければならない。

 中身をネットに置いていても、

 身体は生き続けなければならない。

 切っても切れないその二つのバランスを、どう取るか。

 人生の中で何を割り切るのか。

 そして何を大切にするのか。

 それを選ぶ権利は、

 中身だけの彼らには与えられていない。 

Kise Iruka text 116;
Cyber philosophy.

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