【連載小説】雨恋アンブレラ_6

 小麦色に灼けた肌がグラウンドを駆け回っている。ハーフパンツからすらっと伸びた脚は、同性のわたしでも見惚れるくらい綺麗だ。
 わたしの隣にも見物客がいた。見物客、という言い方は悪意があったかもしれない。陸上部の幽霊顧問として有名な片桐先生はベンチに腰かけてぼんやりグラウンドを眺めているだけで、声をかけることも何か記録をとることもない。
 でもそれはわたしにとっては好都合で、陸上部にとっての部外者が隣に座っていても、片桐先生が気に留める様子はない。
 単刀直入にいえば、わたしは部活をサボっている。文化祭までに仕上げないといけない絵を放り出して、千里の部活を見学している。気分転換にでもなれば、と思って外に出てみたけれど、これが意外と気分転換になる。気分転換にはなるけれど、何かアイデアが下りてくることはない。ただ、絵が描けなくなったいちばんの原因である、集中力不足には効果がある気がする。
「きゅうけーい」
 大きな声がグラウンドに響いて、陸上部員たちが散り散りになる。片桐先生は部員たちにひと言も声をかけることなく、校舎のほうに戻っていった。わたしが言えた義理ではないけれど、何をしているんだろう。
 わたしも退散しようと思うのが少し遅くて、千里に見つかった。
「何してるの? 部活は?」
 全身から吹き出す汗をたいして気にすることもなく、鬱陶しそうにタオルで拭く千里はかっこいい。
「わたし、決めたよ」
「決めた?」
「うん、千里を描く」
「えっ、待って、なんて言った? あたしを?」
「うん、いいの。千里には何も迷惑かけないから。じゃあね!」
 わたしは夢中で駆け出した。陸上部の千里からしてみれば、ぐちゃぐちゃのフォームだったに違いない。背中に降りかかる千里の声は、よく聞こえなかった。

 美術室に戻り、わたしは一心不乱にスケッチブックと向かい合った。三枚下の紙で中途半端な顔で笑う天海くんを塗りつぶすように、右手を動かし続けた。脳裏に焼き付けた千里のフォームはすらすらと描けたし、天海くんと違って千里の顔は頭を悩ませないでも思い出せる。目の前でモデルにじっとしていてもらわなくてもいい。わたしの頭の中で、モデルが笑っているから。
 ぽきり、と鉛筆の芯が折れて飛んだ。ようやくわたしの動きが止まって、それを待っていたかのように「歌川さん」と同級生の女の子が話しかけてきた。「さっき、これを歌川さんに渡してくれって」
「ありがとう。誰?」
「ごめん、名前はわからないんだけど……。でも、歌川さんにって言ってたから。クラスの子じゃないかな?」
 それは真っ白いUSBメモリーだった。「2GB」とだけ書いてあって、当然だけどなんの手がかりにもならない。
「ちょっと、パソコン室行ってくる」
 あ、うん、とその子が返事をする。美術部は基本的に個人プレーだから、誰がどこにいても別にいいのだ。でも、そのときわたしが言ったのは、自分なりの防衛本能だったのかもしれない。

 放課後のパソコン室は誰でも入れるようになっている。課題をやる生徒もいるし、今の時期は文化祭の準備をしている生徒も多い。
 わたしは空いているパソコンをすぐに見つけたけど、その両隣は使用中で、間に割って入るのは少し嫌だった。何が入っているかもわからないUSBメモリーを開くなら、できればこっそり見たい。だから最初はインターネットを立ち上げて当たり障りのない調べ物をしていた。絵の描き方、どうやったらうまく描けるのか。
 そうこうしているうちに、周りから人がいなくなった。すかさずUSBメモリーを差す。短いロード画面のあと、「新しいフォルダー」と名づけられた、名づけられたのかもわからないフォルダーが現れた。
 それをダブルクリックすると、また「新しいフォルダー」。何回クリックても、新しいフォルダーの奥に沈んでいくばかりで、マトリョーシカのようにどんどん小さくなっていく。
 これはなんなんだろう、と思いながらも、機械的にダブルクリックを繰り返す。何個目のフォルダーかもわからなくなったころ、その名前が変わった。
【三つ数えろ】
 いったい何を三つ数えればいいのだろうか。不思議に思いながらも、クリックする手を止めることができない。
【心の準備はいいか?】

 わたしはそこで一度周りを見回した。大丈夫、誰も見ていない。もし変なものが画面に表示されたら、すぐに消せばいい。
 心の準備ができた。
 右手の人差し指に力を込める。そのダブルクリックが、地獄への入り口になるなんて、わたしは思いもしなかったから。

(つづく)


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