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過去の私へ「人見知りを免罪符にしない」

先日無事に、2年間の修士課程を締めくくる卒業式が行われ、私はいまとても清々しい。
(・・・下書きを書いていた時点ではそうだったのだけれど、今は受かると思っていた企業がどれも落ちてしまって、ちょっと清々しいとは言い切れない。でもきっと大丈夫。)

日本では「まだ学生がいいな」「働き始めたくない」という人も私含め多くいた。反面、ここでは多くの人たちが「早く卒業したい!」と言っている。私も今はこれだけ自由な時間を謳歌しているから、就職するのはちょっと怖いけれど、十分学生はやり切った!と感じている。それだけ、みんな頑張って勉強や生活をしているんだと思う。

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それはさておき、私は自称・人見知りだったかつての自分にちょっと喝を入れたい。

そんな気分になったのは、この2年間で人見知りの影もなくなった自分の変化を客観的に考えたくなったのもあるし、それが「人見知りを克服したい」と思っている人のヒントにでもなればと思ったのもある。
ただ、過去の自分に向けているので、かなり手厳しくなると思う。

その人見知りは甘えではないか?

私は幼い頃は、お山の大将のように活発で常にリーダーや○○長といった目立つ役割をやりたがっていた。もちろん、人見知りではなかった。

その後、全校生徒1000人超の中学校に上がり、良くも悪くも集団のなかでの身の置き方や振る舞いを身につけ「なるべく悪目立ちしないように」と気をつけるようになった。小学校の頃に言われた「目立ちたがり屋」「優等生」という言葉が、もしかしたらどこかで引っかかっていたのかもしれない。

そして、中3の冬に急遽、他県の高校に入学することが決まり、入学先でもっと内向的になった。特にいじめられていたわけでもないし、クラスメイトはみな良い人だったけれど、なんとなく身の置き場がないと感じていた。だから、修学旅行も参加しなかった。(おかげで10万円の参加費が戻ってきた。)

大学では、高校ほどではなかったけれど、正直人付き合いは面倒くさいし、何よりも飲み会に頭を悩まされていた。どう断るか…。時には母の知恵を拝借しながら、断りのLINEを考えていた。

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いまその時の自分に言いたいのは「人間関係に後ろ向きな私でも、周りにいる人たちは、みんな優しくて良い人ばかり。どうしてその人たちを自分が『楽しませたい、喜ばせたい』と思わないのか?相手が自分を楽しませてくれるとどこかで期待していないか?」ということ。

もちろん、高校や大学時代の友人たちは大切だし気が合うけれど、自分から会いたいと声を掛けたことはほとんど無かった。それははじめ、「忙しいかな?自分と本当に会いたいかな?」という自分なりの配慮のつもりだった。

けれど、それは結局、相手にあれこれと「配慮」することが面倒になって、それなら自分からは声をかけないでおこう、という放棄状態に過ぎなかったと思う。
きっとこれまで誘ってくれた人たちのなかにも、そういう面倒くささを感じた人もいると思う。それでも声をかけてくれた。

ほかにも、これは複数人で会うときがそうだったが、「私、人見知りだからなぁ」と心の中で言い訳して、特に自分から話さず、なんとなく相づちを打つだけのこともあった。「早く帰りたい」と思うときも。

もしかしたら、そこで何も考えず好きなように話しているように見えた人も実は、その場を盛り上げようと、いつもの数割増しのテンションでいてくれていたかもしれない。

私は「人見知り」を免罪符に、自分以外の誰かが自分を楽しませてくれるとどこかで期待していたのではないか?

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それに気がついたのは、やっぱりシェアハウスの経験が大きいと思う。
私含め6人の女の子たちが住んでいて、セメスターによって、モロッコ出身だったり、オランダ、フィリピンとインターナショナルで入れ替わりも激しい。私はすでに2年近く住んでおり、古株になった。

私は自分の後に引っ越して来た人たちに、早く居心地よく感じてほしいと、洗濯機やコーヒーマシーンの使い方を教えたり、声をかけたりしていた。
これは意識的に行っていたわけではないけれど、気がつけばシェアハウスの中でもっとも頻繫にメンバーとコミュニケーションをとる立ち位置になっていた。

韓国人のハウスメイト同士は、なんとなく気恥ずかしいのか互いによそよそしかったりする。その子たちが、私とはちょくちょく話したり、私が一時帰国した日本から戻ってきた時に「Welcome back!」と言ってくれたりすると、とても嬉しい。

「自分がされて嬉しいことを、相手にもする。」

とてもシンプルなことだけれど、人見知りと自称していたころは忘れかけていた。自分にしか目が向いていなかったのだと思う。

韓国の開放村(ヘバンチョン)というエリアからの夕暮れ

「信頼しているあなたに、私の日常や考えをシェアしたい」

やや話が脱線するが、このシェアハウスでは「自分のことを共有することは相手に安心感を与える」とも気がついた。

去年、ベラというオランダ出身の子が2階のダブルルームに住んでいた。彼女は、明るくて頑張り屋で、でもいつもちょっとしたストレスを抱えている子だった。そして、何よりも他の人と色々なものやことをシェアするのが好きだった。

例えば「卒論のテーマをウイグル問題にしようと思うけど、このパラグラフどうしよう」といった相談事や、「このぬいぐるみは小さい頃から大切にしている」といった日常の些細なこと。時にはシェアハウスに2週間に1回来る清掃の人にも、彼女のルーツであるトルコのお菓子を分けてあげていた。

私ははじめは「仲良くしてくれてうれしい」とだけ感じていたけれど、次第に、その日起こったことやどういう気持ちになったかをシェアする時間は、とても心地いいものだと気がついた。

それは互いに信頼し合っていることでもあるし、特にひとつ屋根の下で生活しているのもあって、わずかな瞬間人生の一部が交差している感覚にもなる。

私はそれまで、自分の日常で何が起こったかなんて、家族以外興味がないだろうと思っていた。正直、それは今でもあまり変わらない。けれど「個人的なことをシェアすること」自体に意味があると思う。

長くなりそうなのでこれ以上深堀りはしないけれど、私が感じたシェアの大切さは、不特定多数に向けたSNS上での共有ではなかなか難しいと思う。「信頼しているあなたに、私の日常や考えをシェアしたい」という思いは、やっぱり一対一の会話でしか伝えられない。

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あと1か月もすれば、私は韓国から日本へ完全帰国する。日本での日常がはじまり、もしかしたら昔の自分に戻り、人付き合いが億劫に感じるかもしれない。でも「人見知りを免罪符にしない」ということを度々思い返して、喝をいれたい。




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