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食べておしまいにしない。芸術鑑賞として食事を続けていたら、新しいキャリアが見えてきた ["つながる”ためのアローングルメ#3]

つながりに辟易したはずのひとりの編集者が、アローンな食の旅に出たことで収穫したのは、実は(ひと・もの・こととの)つながりだった。「"つながる”ためのアローングルメ」は、ひとりで食べるという料理鑑賞を棚卸ししていく連載です。

自らすすんで選ぶ「おひとりさま」。

一人で食べることを肯定的に捉え直す活動。

その店で提供されている料理に全神経を注ぐ瞑想的な食体験。

「アローングルメ」で満たしに行くのは空腹だけではない。食欲の領域外も含めた知的好奇心を刺激し、その場にいく自分自身に対する肯定感の確認をしに行くことです。

先日公開した前編では「アローングルメ」という言葉を設定して、僕がひとりで外食をするときの考えや経緯について。中編ではアローングルメをどう始めていけばいいか。僕の日々の店舗選びについて、それぞれ紹介しました。

今回で僕がアローングルメを棚卸しする記事は一旦おしまい。後編は、実際にその日・その時間をどう楽しみ味わい、以降の暮らしやキャリアに役立てていくかについて書きます。

(1)おしりの時間を設けない。長いときは4時間ぐらい平気でいる

以前にも書いたかもしれませんが、時間に制限がある食事の席を僕は嫌います。勘違いを恐れずに言うならば、2時間制の居酒屋やダイニングバーにも、席料を払うから長くいさせて、と思うタイプ。

高級店のコース料理だと皿数によって変化はしますが、平均2時間はランチもディナーも使います。最長は4時間でしたね・・・。

もちろん次の予定は入れません。終電が気にならないように交通手段や環境の準備もします。食べて想像し学ぶことに集中するべく、心配事項を潰すとき、時間は主要事項に上がりやすいです。

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(2)塩分・香り・食感・色彩をじっくり味わう

シンプルに味わえ! です(笑) 

僕はワインのことも日本酒のこともたいして詳しくないし、家庭料理はつくるけれど、専門料理の調理法に詳しいわけでもない。批評や実践のための食べ歩きでもないので、知識を蓄え、食材や料理に詳しくなろうという気概も実はあまりありません。

理屈はすべて横においておく。ただ、ただ、味わうだけです。

なぜいい匂いがするのだろう。なぜ甘いのだろう、酸っぱいのだろう、しょっぱいのだろう、辛いのだろう。なぜ美しいのだろう。なぜこの酒と合うのだろう。なぜ、こんな色彩になるのだろう。そう自分の直感を頼りに探検することでいいんです。

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手毬から着想されたというNARISAWAのお椀。目に飛び込んできたときの感覚、出汁をいただいたとき、中央の根菜を食べたとき、根菜と中のつみれを崩したあとで、変化に富む逸品

理屈よりも直感といいつつ、それがただ「美味しかったね」ではもったいない。どう美味しくて、気持ちいい時間だったのか。それを考え言語化すると前進する。そう教えてくれたのは、サローネ東京の樋口敬洋さんや永島義国さんだったかもしれません。(大リスペクト!)

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コロナ直前、白いティラミスをつくる永島さん(今ではワゴンサービスはないんじゃないかな)

(3)この料理ができあがるまで、どんな自然や人の貢献があったのだろうと考え感謝する

ちょっと、僕の本業っぽい話になりましたね(笑) 僕は数年前まで「築地の鶏肉卸売店の創業者一族長男」っていうラベリングがされていましたが、いのちを戴いてビジネスをしていた。その恩を忘れるなというのは、かなり厳しく教育されてきました。

仕上がった料理を表面だけ見ると、シェフがどのように素材を下ごしらえし、味付けをし、加熱をしたかということに気を取られがちなんです。

でもその野菜は誰がどんな苦労で栽培し、新鮮なうちに運ぶための運送があるか。そもそもその野菜が成り立つまでの古来からの食文化伝承は・・・などと思いを馳せていくと、一皿の料理から学べることがたくさんある。

僕はAlice Watersに強く影響を受けたし、彼女がカリフォルニアで展開する「Edible Schoolyard」や「Chez Panisse」を取材させていただく恩恵もあったんですが、ひとりで高級なコース(100ドル・1万円を超える)を初めて食べたのは「Chez Panisse」でした。

自分の意志で、自分のお金で実践したアローングルメの出発点にAlice Watersがいたということも大事な通奏低音かもしれません。

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シェ・パニーズ1Fのキッチン。閉店直前で片付けもほぼ終わったので入らせてくれた

(4)その場に流れている空気を味わう

物静かで洗練された空間の店でのコース料理も好きですし、(僕をよく知る人には意外に思われるんですけど)場末感がある居酒屋でモツ煮込みを食べるのも好き。

その店の持つ雰囲気の一番の魅力や独自性ある側面を見つけたら、その世界に没入するのが楽しいです。

とはいえ、「うわぁ、この雰囲気、苦手」というときもあるんですよね・・・そういうときは、あえてその「苦手」という感覚に没入していき、自分の苦手を細分化するようにしています。すると、今後の店選びの際に「はずれ」を引く可能性が低くなりますからね。

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(5)スマホNGにしない。

音を出す、動画の再生、画面を見せ合うは嫌です。ただ、スマホをその飲食店の滞在中に一切使用NGと自分に強いることはしません。僕は躊躇なくスマホは使います。

夢中になって、スマホを撮影以外で使わない食事もあります。でも、時に、ほとんどスマホ片手のときも。それで全然いいんです。もちろんその店のルールがあれば従うべきですけれどね。

なぜ、スマホが恋しくなったのだろう。料理に集中しているはずだったのに、仕事や友人からの連絡に気を取られてしまったのだろう。そうして、自分を観察するチャンスにしています。食後に省みると、その食事へどれだけ没入できたかを理解しやすいんです。

集中しきれなかった店だと、どうでもいいメールに対応してしまいがちですが、料理に心酔しているときは夢中なので最低限の対応しかしません。

(6)シェフやソムリエやホールの動きや言葉を学ぶ

おひとりさまだとカウンター席に案内されると嫌う人もいますが、僕はむしろ、そのほうが助かるなというのが正直なところ。最近はカウンターのみのイタリアンやフレンチも増えましたね。

祖父も父も、カウンター席に座ることを好む人でしたから、どんなサービススタッフにどのように頼み方をすれば円滑に進み、店との関係性も紡ぐことができるかというのは教わる機会が多かった気がします。

もちろん内心「この人は・・・」と残念に思うシェフやスタッフに出会うことはたくさんありますけど、批判することや採点するような気分にはならないようにするのが大事ですね。コミュニケーションって減点より加点のほうが気分がいいものです。

先にも書いたように、僕は料理やお酒の知識はたくさんありません。自ら本などを頼って学ぶこともそんなにない。だから、レストランでの雑談から学びたい。よそよそしい接客をされると緊張しちゃうので、饒舌な方が担当につくと「よかった!」と思いますね。ただ、時に「おまえ、喋りすぎ、静かに食べさせろ」という人もいるけど(笑)

そういえば、20年ぐらい前、すごくお世話になった「寿司屋なのにフレンチやステーキを勝手に出す」お兄さんがいて。残念なことに彼はとても若く早逝してしまいましたが、すごく饒舌な自信家で「美味いでしょ、俺、天才でしょ」と言わんばかりの人でした。

高校生の頃の僕はそれが嫌味には思わなかったし、試行錯誤も惜しげもなく語ってくれたので、いっぱい学びました。

いまでも彼を思い出してセンチメンタルな気分になることがありますね。もし生きていたら、いっぱい教えてほしかったし一緒に食べ歩きしたかった。彼が今も生きていて、オーナーシェフとして店も出せていたら、きっとすごいことになっていただろうとも思います。

この人から学びたいと思えるシェフやソムリエと出会うと、いろいろ話を聞きたくなる、近づきたくなる。その背景には、こんな喪失体験があるかもしれません。

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(7)点数をつけるために、評価するために、記録を残すために行かない。(インスタ用写真撮影は手短に)

もちろん「美味しかった」「あんまり・・・だった」「素敵なサービスだった」「あのサービス、ありえない!」といった感想は持つし、その自分の得た感覚を誰かと共有することはあります。時にあまりにも感動すると、レビューを書き込むこともあります。

でも、あくまで食べに行くのであって、採点やレビューを書き込むことや、インスタのいいねを集めることは目的じゃない。そもそも学生時代に点数をつけられる苦痛を味わった僕が、誰かの仕事に点数をつけるなんて、筋が通っていない。その「そもそもの目的」は大事にしたいです。

そしてインスタに料理の写真は載せるけれど、いかにその写真撮影時間を短くするかは僕には超重要。運ばれた瞬間に食べなきゃ! (僕のインスタの写真の構図などがイマイチなのは、それが理由です・・・と言い訳をする。笑)

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(8)一品食べたら、なんで美味しいのだろう、なんで美味しくないのだろうと思索の旅に出かける。

とにかく考え続けたい。美味しい理由を。美しい理由を。まずい理由を。醜い理由を。

そして時にその料理がメッセージや問いを投げかけるときもあります。それを読み取り、受け取り、考え、出た解を自分へのお土産にする。

アローングルメにおいて料理と対峙するときは

[1] 美味しく食べること。

[2] 感じること。

[3] 感じたことを考え、掘り下げること。

この3つのプロセスを楽しむ。そんな娯楽・芸術鑑賞のひとつの形として僕はアローングルメを実践しています。

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食べておしまいにしないために

食事は、皿数の多いフルコースでさえ、長くて3時間ぐらいで終わってしまいます。

ときに僕は「胃の中に消えてしまうものになぜそんな大金を払うの?」と聞かれるんですが、ただ視覚・聴覚だけでなく、嗅覚や味覚や触覚も刺激し、さらに身体の中に入っていくアート作品なんて、料理以外にないんです。

さらにいえば、このデジタル化・オンライン化・物流技術の向上においても、料理はその瞬間にその場所にいないと完全な形で味わえません。この「究極のアナログカルチャー」なのが、デジタル漬けの仕事をしている僕には癒やしです。

僕はアローングルメを芸術鑑賞の一環としてつづけているので、食欲・胃袋を満たすだけだと大金は惜しいけれど、「その後の自分に続いていく」こと、つまり感性を育み、いいインプットをもらうことも含めて食べに行くし、お金を使う。

そう意識してアローングルメを続けていくと、瞬間的物欲を満たすための衝動買いよりも、自分の可能性を広げてくれるので無駄遣いと感じなくなりました。

(もちろん高価な店が続きすぎた結果、カードの明細をみてクラっと来たことはあります。笑)

僕は編集者として「読んでおしまい」にしないものをつくる。講師として「受講しておしまい」にしないものをつくる。このふたつを非常に意識しているんですが、アローングルメという活動も同様です。

食べておしまい、にしない。

料理を食べ終えた瞬間に、何かスタートできることはないか。家で真似られるものがないか。グリーンスター取得店ならば、その料理のどこか持続可能で、本当にそれは成果としてじゅうぶんで、かつ僕らの意識変容にもつながっていくのか。

あるいは、あの食材と調理法の組み合わせにあった斬新さ、ワインのペアリングからクリエイティブマインドをどう刺激できるのか。

そういった積み重ねをしているうちに、僕はアローングルメにより随分と感性と思考が成長した実感があります。(体重の面でもね。笑)

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アローングルメとは、つながるための孤を楽しむ時間である

以前、本連載の予告編として公開した投稿でも書きましたが、集団から離れて孤独を味わうことは必要だし、そこで自分とつながるからこそ、本当につながりたい仲間だけが増え、つながりは濃密になるというのが僕の考え方です。

アローングルメによりもたらされたのは、舌の感覚、料理の知識、さまざまありますが、実は「つながることの再設計」でした。

知らぬ間に僕はアローングルメを通して、シェフとつながり、サービススタッフとつながり、食材を通じて自然とつながり、伝承文化とつながり、自分の身体・マインドとつながり・・・無数のヒト・モノ・コトとつながっていったんです。

僕の実践するアローングルメは、自分を社会やコミュニティから切り離し、ひとりの世界に浸ることではない。さまざまな事象とつながるために、自分の感性と知識と人脈を育む時間です。

食べたら料理は消えてしまいます。でも、その一瞬をどう残していくかと注意深く考えれば、収穫価値は形として残るものを超えるのではないか。それにより、新しい世界・人と出会えたいまは、いい先行投資ができたとも思います。

先にも書きましたが、食は完全にデジタル化・リモート化できないもの。オンライン販売のお取り寄せは再現性は高いけれど、その空間で、料理人が最後までつくりあげたものと比較すれば、やはり疑似体験の域は超えません。

料理を食べることは究極のアナログカルチャーであり、全身すべての感覚で取り込む芸術鑑賞。僕はこれからも美術展に足を運ぶような感覚で、アローングルメを続けていきます。

最後まで読んでいただきありがとうございます! よろしければチップや、仕事依頼もぜひご検討ください◎