罪と贖罪とスクールカースト

今でこそ振り返ってはっきりわかるのは
自分は「いじめ被害者」だった。
それも例えば暴力的な物であれば当時の大人たちの介入でなんとかなったのかもしれない。
だが僕が受けたものは人間関係の物であり
精神的な苦痛だった。
身体的な苦痛は多少はあったが傷跡が残る、あざが残るというような物ではなかった。

だけど心に受けた傷はあまりに大きかった。
失った物は例えどんな代償を払っても取り戻せない物だった。
精神的には一度この時に死んでしまった。
それでも根本に根付いた傷は例え10年経とうが消えることも癒えることも無かった。

全ての生きづらさの根源を遡るとここに行き着くからだ。彼らからすればそれは
「些細なこと」「若い頃にした軽いエンタメ」だったのかもしれない。
じゃあその「些細なエンタメ」のせいで今に至るまで影響を受けた人間は悪いのか?
それを流して忘れて切り替えて生きろと?
何故被害者がそんな努力をして生きていかないといけない?

何故かこの国では「いじめられた側」にも原因があって「いじめてる方にも複雑な事情」があって
許してやれという解釈をするらしい。
実際に根本的に心身共に捻じ曲がってしまった人にこんなことを言えるのか?
されて失った物はこいつらを「許した」ところで戻らないし「謝罪」されても失ったままなのに。
「子供だからまだ未熟」だから?
何故許されると、仕方のない物だと
認識させられなければならない。
彼らに対して持つ恨みや怨嗟すらも
否定され生きなければならないのか。

僕は末代だしそうなった原因は彼らにあるのだからそれはもはや間接的な殺人ではないのか?
仮に僕が彼らの家族から孫の果てまで殺し尽くしたとして発生してること自体は同じだろう。
物理的に殺すか精神的に殺してるかの違いでしかないのに。

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