いじめ被害者に救いは無い。

よく「いじめられる側にも原因がある」
「いじめる方も家庭環境が辛くてするんだ事情がある」「まだ未熟な子供がしたことだから」
「昔のことだから切り替える努力を...」
などと言われる。
特に「過去にこんな嫌な思いをした」みたいな話をすると大体このうちのどれかは必ずと言っていいほど返ってくる。

実際のところ「身内グループ内での順番で回ってくるいじめ」とかならまだギリギリそういった理論も通るのかもしれない。
でも本当にキツくてしんどくて救いも無かったら?確実に自分の精神が死ぬほどの経験をしたような人間にまでそんな綺麗事は通用しない。
僕たちのある種唯一生きる理由は加害者の
惨めで惨たらしく苦しみながら死んでいくところが見たいみたいなそういう感情しか感じない。

でも結局被害者はずっとその経験がトラウマで人間関係そのものがストレスになり精神的にしんどい思いをしながら投薬治療や認知療法やらなんやらをしてようやくギリギリ生きれるレベルにしかならない。加害者の人間は適当に人生をそれなりに楽しみながら生きていくのに。
そんな不条理があってたまるか。
何年経とうと何十年経とうとその時の経験や見た物は忘れられない。今でも追体験してるかのように思い出して睡眠もろくに取れない。
浅い睡眠だと決まって夢を見て目が覚める。
そんな状態でまとめに健康的な生活など出来るわけがない。

それでも心のどこかでは
「いつかあの時の分救いがある」と信じる。信じてきた。あの時一番辛くて苦しくて痛かったのを耐えたのだから報われないとおかしいだろうって。でも現実にはそんなことなど起こりはしない。その事実がその未来に気づいた時にもうどうでもよくなる。「生きてるだけで辛かった、どうせこの先も辛いことしかない、死んだ方がマシ」なのだとしか思えなくなる。
実際のところ感覚としては
精神的にはその時に死んでいて身体的にだけ生きているような感覚に近い。中にはその後の人生で克服出来るような人もいる。でもそれが表に出るのはその人が「そう生きれた」からであって
そう出来なかった人の話はそもそも表に出ない。だからそもそも認識すらされない。
実際僕は10数年前のことに対してより
認識は重く酷くなっている。
何故「ただ面白そうだから」
「ちょっとネタに出来そうだったから」程度のことから始まったことのせいでずっと希死念慮と戦いながら生きないといけないのか。
もうこんな感情と戦いながら生きるのに
つかれた。
早く死んで楽になりたいし死んでその感情を感じなくなるのならばより早く死にたい。

もうつかれた。

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