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【note119枚目】娼婦の本棚

 有名私立女子校、都内進学校、慶應義塾大学、東京大学大学院を経て新聞社へ入社。

 ブルセラ女子高生、キャバ嬢を経てAVデビュー。

 どちらの経歴もインパクトが強くてセンセーショナル。これ全部1人の女性の半生。

 ヴィレバンだとポップの両面にそれぞれの経歴を書いてどっちがウラでどっちが表なんて仕様にせず掲載しそうだなぁなんて考える余裕が出来たのは、先の刊行イベントで鈴木涼美さんが「A面B面」と表現されていたからだ。どっちかが欠落していても、今の姿を形作れない。成立しない。どうしても後者の経歴がわかりやすく強く人の関心を惹く、一種スキャンダラスな経歴である一方、前者のそれが同じ人間に伴うとなると「〜なのにどうして?(こんなバカなことを?)」と()付きで感想を持ってしまう。本当に失礼な固定観念だなって思う。すみません。

 『カメラの前で服を全てを脱いで寝転んでも大した金額が支払われないほど安いものになっていた。』これははじめにの中にある一文。ここを読んだ時、なぜか頭を強く殴られた心地がした。なぜだろう。プロフィールに目を通してから本を読み始めて、割とすぐにこの一文が出てきた。あえて表現すると、彼女の「履歴書で見える経歴」だけなら、こんな一文を書き記すような経験をする必要なんてなかったんじゃ無いかという思考に一瞬でも繋がってしまったからだと思う。でも「履歴書に載らない経歴」もあってこそ深みを増して、広がった見識もあるからこうして彼女の思考や経験を書物として読んで触れる事が出来るわけで。私は両方とも持って無い。ちっぽけなただのOLじゃないか。何を考えとる。ここまで3分。

 筆者の別作品『身体を売ったらサヨウナラ』は映像化されたものを拝見した事はあった。でもあちらは映画というフィクション。活字というノンフィクションの筆者には初コンタクトで、読み終わる時には、しょうもなくて失礼な固定観念は粉砕され、頭は柔らかく、物事なんでもイコールで結びつけてしまいがちな境界線はどんどん薄くなっていた。

 私は昔から本を読む事はそれほど好きではない。夏休みの読書感想文は、宿題だから仕方なく本を読んでみるものの、そこから何を感じたとか、どう思ったかを文章化させる作業がとても苦痛だった。おそらく、課題図書をお母さんから与えられ、自分なりに書いた文章にダメ出しされて何度も本を読んで書いても何度もダメ出しがあった記憶が頭からなかなか離れなかったから。それ以降今に至るまで、人から薦められた本を読むのは何となく苦手なまま。

 読んだ本と自分の記憶や経験を沿わせる形で20作も紹介されている本作は、それだけでもなかなか自分としては驚きなんだけど、生活に本があって当たり前だった筆者の『お気に入りの一文に出会う事が読書の醍醐味』という考え方に触れて、そんな読書の楽しみ方もあるのかと目から鱗が落ちた心地がした。

 今の世情を『大喜利ネット社会』と表したところは特になるほど! と。手短に巧く、無難に心を和ませるものが求められるというのは、言葉や時間を制限されたSNSの発達も一因になっていて、短く巧く無難に和むを大喜利という表現で皮肉を含ませているなと私は感じた。切り抜きやショート動画の需要が伸び続ける一方で、固く長く論じられる事柄は目を向けにくくなるとそれは問題かなと。他人の言葉と自分の思考を擦り合わせて考えるにはどうしても時間が要る。そこさえなくなってしまうとせっかく良い言葉を紡がれた大喜利の答えだったとしても「へー」で通り過ぎてしまいそうだなと思う。ネット社会の大喜利化と共に思考の瞬発力が上がってるかと言われるとそこは難しいんじゃないかな?

 今日までで私はまだこの本を1周しか読めていない。筆者はこの本を、普段本を読まない夜職のお姉さんたちのかばんに忍ばせてもらえるような気持ちで書いたとおっしゃっていた。だから言葉選びや文体もよりライトに、わかりやすく工夫されているとも。夜職に縁ない昼間のすみっこぐらしOLでも、まだまだこの一冊からパンチを受けるところがありそうな気がする。自分のお気に入りの一文、パンチラインを求めてまだまだ何度も読み直して行きたい。

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