ここはウィニーの胎の中〜かもめマシーン『しあわせな日々』

2019年2月10日、かもめマシーン版『しあわせな日々』を伊勢佐木町のThe Caveに見てきた。

雑居ビルの細長く狭い階段をくだって会場に入る。会場の中央には、こんもりとした金属のかたまりが鎮座している。そこに下半身を埋めた女性が、金属の山につっぷしている。会場の天井は低く、金属のオブジェやワイヤーが散っていて、少し息苦しい。
やがてけたたましい目覚ましの音が響き、女性は上半身を起こし、語り始める。

『しあわせな日々』は、サミュエル・ベケットによる演劇作品で、初演は1961年。登場するのは、女性・ウィニーと夫・ウィリーの二人だけである。
腰まで砂山に埋もれたウィニーは、ひたすらおしゃべりをしながら歯磨きやお祈りなど日常動作を行う。ウィリーは新聞を読み、時折返事を返す。
二幕。再びけたたましいベルの音が鳴り、ウィニーは目をさます。砂山はウィニーの肩まで盛り上がっている。ウィリーの姿は見えない。なおのことウィニーは語り続ける。
最後、正装したウィリーがウィニーのもとを訪れる。ウィニーはようやく歌い、ウィリーはウィニーに声をかけ、幕となる。

『しあわせな日々』は「老い」についての演劇だとよく言われる。
思うように体が動かせなくなること。
習慣が拠り所となっているけれど、徐々にほどけていくこと。
そこにあり、いることのワケが空白となること。
それら諸々ひっくるめてウィニーは「しあわせ」と位置づける。

砂山は、外側からウィニーに覆いかぶさり拘束するものとして「老い」を描き出す。
だが、かもめマシーン版『しあわせな日々』では金属のかたまりとなっている。薄手で、ゴツゴツとした、甲虫の翅のような金属が連なったかたまり。この金属のかたまりは胎として機能している。

劇中、陽にあたりすぎたウィリーはオブジェの中に潜り込む。わたしの席からは見えなかったが、2018年3月の時点でオブジェの中でウィリーはオブジェの中で胎児のように身をまるめて眠っていたらしい。
金属のかたまりは、ウィニーを外から飲み込むものとしてではなく、ウィニー自身の変容として「老い」を描き出す。

前半と後半の境界で、ウィリーは一度会場を離れ、階段をのぼり、姿を消す。上半身を覆う金属の鎧がウィニーに被さり、ウィニーの姿は首から上しか見えなくなる。会場内に散らされた金属のオブジェやワイヤーが落ちたり動く音が聞こえてくる。
The Caveという会場全体がウィニーの胎になったかのようだった。
終盤にウィリーが再び張って階段を降り会場へ現れるのは、The Cave全体に拡張されたウィニーに再び回帰するかのように見えた。

かもめマシーン版『しあわせな日々』では、従来の『しあわせな日々』でよく試みられ、また指摘されるような、SFチックな世界観の底にウィニーが生きる「現実」が透けてみえるという仕掛けは感じなかった。
むしろ内側へ、内側へ、という志向性を感じた。ウィリーも観客も、ウィニーの胎の中。これは、The Caveという上演空間が喚起していたのかもしれない。

このような空間と演目の関係は面白く感じたが、「歌」については違和感を覚えた。
劇中、ウィニーはひたすら語る。ふとよぎったこと、目についたこと、思い出したことを言葉にする。
語りが尽きたあとには歌えるとウィニーは待望するが、歌ったあとに時間があまってしまうことを恐れ、なかなか歌うまでに至らない。
引き伸ばされ、引き伸ばされ、なかなか歌えないからこそ、最後の歌=「メリー・ウィドウ・ワルツ」は甘美かつ終焉を感じさせて悲しい。
けれども、かもめマシーン版『しあわせな日々』では、ウィニーの語る台詞は、時折ポピュラー・チューンのメロディにのせられる(要は替え歌だ)。「メリー・ウィドウ・ワルツ」の、「歌うこと」の特別さが減じるため、替え歌はあまり効果的でないと感じた。

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