10.6 役所改革の日
きょうは、新入職員の僕としては楽しみにしてきた日だ。いつも着ているウニキュロのポロシャツではなく、一張羅のビャービャリーのシャツを着る。袖を折り返すと、ビャービャリーの特徴である美しいチェック柄が出てきて高級感を醸し出している。
「お母さん、行ってくるよ」
「あら、どうしたの。そんなおしゃれして」
僕は、ふんっと鼻を鳴らして胸を張った。
「きょうは大貧民の日なんだ。革命を起こすぞ」
そして、下駄箱の上に用意してあった弁当箱を持って家を出た。
僕は、役所に着くと朝の朝礼で前に立って挨拶をした。
「おはようございます。きょうは大貧民の日なので、僕は役所長よりも偉くなります。お昼のゲームをもって必ずや革命を起こす所存ですので、言いたいことがある人は、まだお昼まで募集していますので、僕の製作したボックスの中にご意見を書いた紙を入れてください」
一番出入り口に近い自席に戻ると、ご意見ボックスには溢れんばかりの藁半紙が入っていた。この役所では経費削減のため職員の上質紙の使用は禁止されている。こんなご意見にまで全て藁半紙とは、涙ぐましい努力である。
僕は、午前中をかけてその熱かったり冷めていたりする要望のひとつひとつをワードで書き出した。
普段なら勤務時間にこんなことをしていたら減給ものだが、きょうは大貧民の日なので何も言われない。
今年の新入職員は僕一人。僕にかかる期待は大きい。仲間が欲しかったと思う日もあるが、これまで僕一人に期待をかけられたことなど無かったので嬉しいは嬉しい。
キーボードを叩く指にも力が入る。地味な入力作業は僕の得意分野であり、周りの目が輝いているように感じる。
お昼になった。大体の意見はまとめて、円グラフ化することも出来た。上出来であろう。
僕は、お弁当を開いて、お茶を淹れようと立ち上がりかけたところで声をかけられた。
「太刀打さん…っ」
太刀打さんは、僕の一つ上の先輩であり、僕の、いや、この役所のアイドルである。
太刀打さんは、僕のカップになみなみに淹れてくれた緑茶をそっと僕のデスクに置いた。
「きょうは役所長より偉くなれる可能性のある日だからね。特別よ。ゲーム、頑張って」
ウインクの余韻を胸に残し、僕に指先だけで手を振って去っていった。
同じ部署の先輩が隣でパンを齧りながらからかってきたが、僕の耳にはうまく届かなかった。
太刀打さんの未来を護ためにも、僕はきょう頑張らなければいけない。
太刀打さんの淹れたお茶は、彼女の情熱のように熱くて上顎の皮が剥けたが、熱い想いをしかと受け止められた気がしてにやにやしてしまった。
午後になり、秘書からコールがあった。役所長室でゲームが始まるのだ。
ゲームという言い方は、勝手に職員の間で呼ばれるようになったもので、正式には特別階級謁見という。大貧民というトランプのゲームからゲームと呼ばれるようになったのだろう。
僕は資料を握りしめ、辞令交付依頼の役所長室へと足を踏み入れた。
すでにビャービャリーのシャツに汗が滲んでいる気がしてそわそわした。
くるりと椅子が周って、役所長が髭を撫でながらこちらに向き直った。
「えーと、君はあらたまさよし君だね。新しい正義とはなかなかいい名前だ」
「役所長、き、きょうは、だ、大貧民の日です。僕は、必ずや革命を起こしてみんなの願いを叶えますっ」
僕は、役所長に先制パンチを繰り出したつもりだったが、噛みすぎたし、脚も生まれたての子鹿ほどに震えていた。しかも気づけば内股だった。
「新くん。そんなに震えていて大丈夫かね。まぁ深呼吸して。今年の意見書はまとめてきたかい」
僕は震えながら、しかし顔は平気ですよというのを全面に出せるようにイキリながら片手で資料を差し出した。
しかし、役所長はそれを受け取らずに横にいた秘書が攫ってしまう。
「な、何故読まないんで…読まないんだっ」
役所長は、応接セットを指差した。
対になった革張りのソファに挟まれた高そうな机に、ショートケーキと金縁の飾りのついたカップに入った紅茶が二セット置いてある。
真ん中の金色の台には、トランプの束が光を浴びている。
「今年は君一人だったから、一騎打ちだね。こんな年は珍しい。本部も意地悪だなぁ」
何だか、嫌な予感がする。
「もしかして、聞いてない?うちの職員もちゃんとしてるなぁ。家賃手当上げちゃおうかなぁ」
僕の混乱を見てなのか、打ち上げられた魚のように震え始めたことを憐れんだのか、秘書が赤縁の眼鏡をかけ直しながら言った。
「特別階級謁見では、実際に大貧民を行なって勝った場合に限り、それを革命とみなしかなり特例で職員の意見が吸い上げられることになります」
「どっ、どうしてそんな事が出来るんですか…っ役所なのに」
この質問は聞き飽きているだろうに、秘書は丁寧に答えてくれた。
「詳しくは申せませんが、役所にも階級があるとだけお答えしておきましょう」
つまり、この辺鄙な町の中心にある小さな役所を取り仕切る役所長は、このエリアのどの役所長よりも階級が高いということか。
役所長は、髭を撫でながら退屈そうに一つ欠伸をすると、席を立った。
「さぁ、お話しはもういいかな。午後のお茶を楽しみながら、ゲームを始めよう」
ごくりと喉がなる。紅茶はどういう仕組みなのかまだ湯気を立て続けている。
「のっ、のののっ、望むところです」
僕は、震える脚を奮い立たせるように平手で叩いて、役所長の待つソファへと歩を進めた。
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