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11.6 お見合記念日・アパート記念日

鍵を開けて、初めてその重い扉を開ける時の緊張感は何度か経験しても慣れるものではない。
明後日越してくる予定のアパートは、入る前から知らない家の匂いがする。
僕が瞬間戸惑っているあいだに、秋子は猫のように僕の腕の下から家にすべりこんだ。
彼女は鍵穴に刺さったままの、まだ業者から受け取ったプラスチックのナンバープレートしかついていない鍵を器用に後ろ手で抜いて、玄関で靴を脱ぎながら靴箱の上に放り投げた。
僕は一連の流れをどこか他人事のように鑑賞していたが、はっと我に返ると慌てて彼女を追いかけて中に入った。
僕は丁寧に片方ずつ靴を脱ぎながら、秋子が放った鍵をドア裏のフックに引っかけた。
生活習慣は、こんな小さなところでも違いがあるものなのだと新たな発見を得ながら、彼女が脱ぎ捨てた靴もなんとなく揃える。
「かずさん、こっちに来て」
奥の部屋から秋子の声が聞こえる。狭い廊下に反響する音も聞き慣れなくて、僕は靴下のたるみを直してから秋子の元に向かった。
「秋子さん、何をしているんですか」
大きな窓から降り注ぐ、色の濃いフローリングに四角く切られた日差しのなかで、彼女は大の字になって目を閉じていた。
「かずくんも、隣に来て寝てみて」
僕は、秋子さんに言われた通りに寝転んだ。
「だめ。直立の格好じゃなくて大の字になって、思い切り手足を伸ばして」
彼女を見ると、目を閉じたまま微笑んでいる。なぜ僕が手足を真っ直ぐ伸ばしていることに気がついたのだろう。
不思議に思いながら、僕は秋子に当たらないように慎重に手足を大の字にした。
「した?」
「しました」
彼女はたまに独特な儀式をすることがある。多分これも、その一環なのだろうと思う。
「じゃあ、目を閉じて大きく深呼吸をして」
僕は秋子の鼻の低い横顔を見ながら深呼吸をした。彼女は野原にでも寝そべるようにリラックスしている。
「かずくん、まだ緊張してるね。大丈夫。これからここが私たちのことを護ってくれる巣になるから」
「巣、ですか?」
秋子の小さな口唇が、小鳥のように動くのを見るのは少し楽しい。
面と向かっては、恥ずかしくて見つめることが出来ない。
「そう。今ね、この空間に身体を馴染ませてるの。挨拶みたいなものかな」
「挨拶」
僕は、今度は天井を見上げた。
細かいチリに光が当たって、時間の流れが見えるみたいに漂っている。
「挨拶、ですか」
僕はもう一度、自分の中で溶かすように言ってみた。
「そう。挨拶は大事よ」
僕は、目をつぶって大きく息を吸った。半年前にお見合いで出会った秋子の、乾いた落ち葉のような匂いが胸に満ちた。
まだ慣れないこの匂いも、日常生活の瑣末な差異も、いつかこの巣の一部となって僕を暖かく迎え入れてくれるのだろうか。
「よろしくお願いします」
心を込めて呟くと、嬉しそうな秋子の笑い声が耳をくすぐった。
どこに向かって呟いた挨拶だったのか、彼女には分かったのだろうか。

11.6 お見合記念日、アパート記念日

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