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4.19 飼育の日

胸の中心あたりで飼っている化け物が、最近大きくなってきている気がする。

人好きのする笑顔を浮かべて、明るく挨拶。
そんなことを繰り返す度に、本当の僕との齟齬を餌にして、化け物が栄養を得る。
普段はおとなしく胸の中で寝ているだけなので、僕は特に気にすることもなく生きてきた。
この化け物が棲みついたのは、いつだろう?もう覚えていないくらい昔のことだ。
もしかすると、母親のお腹の中で温かな羊水に浸かっているときから、もう宿っていたのかもしれない。

僕が化け物の存在に気づいたのは、中学一年生の時だった。
ちょうど学校のクラスの中でいじめのようなものがはじまった頃だった。
何が原因か分からない、というよりきっと原因なんかなくて、みんな持て余した自我の行き先を求めていただけなのだろうけど。
それは一人を標的にして、一日で終わることもあれば一週間やそれ以上の時もあった。
おかしなことに、標的は一人一回クラスの全員が必ず当たる仕組みになっているようだった。
相手は誰でもよく、誰もが誰かの上に立ちたいと思っていたのだろう。
僕の順番が回ってきた朝、上履きが隠された。
僕はもうこのいじめごっこの顛末を知っていたので、騒ぐでもなく靴下のまま教室に入った。
その時は誰も近寄ってこなかったけれど、教室を見回しただけで僕には上履きを隠した犯人がすぐに分かった。
その頃の中学一年生なんて、顔や雰囲気でどいつが犯人かなんてたやすく分かってしまう。
いや、少なくとも僕には簡単に分かったということだけかもしれない。
そいつはやたらと僕の方を見ては、楽しそうに肩を揺らしていた。
僕の番は三日で終わった。うろたえることもないから、対象として面白く無かったのだろう。
僕は、次の標的を僕の上履きを隠したやつにするよう誘導した。
そして、放課後にそいつの定規を一本筆箱から盗むと、バキバキに折ってトイレに流した。
定規を折る音で目覚めたのが、僕の胸に棲む化け物だった。

それからの生活は、面白いほど上手く行った。
化け物に餌を与えるほどに、僕の日常生活はスムーズに回る。
何より、人付き合いが格段に上手になったので、最初は両親も驚いていたくらいだ。
たまに僕は考える。
今、化け物はどのくらい大きくなっているのだろう。
そしてこの化け物は、一体何が目的で僕の胸に棲んでいるのだろう。

大人になって、社会人になった。
今まで誰にも話したことが無かったけれど、その日僕は酔った勢いでバーの店主に化け物の話をした。
若いのに髭面の店主は、乾いた音を立ててアーモンドを蓋付きの瓶に移しながら言った。
「その化け物は、お兄さんを守るためにいるんでしょうね。きっとお兄さんだけじゃない。形は違えど、誰もがみんな持っているものじゃないですか」

髭の下の口元が柔らかく弓なりに笑んだ。
僕はぼんやりと目を細めた。化け物が僕を守るなんて考えてもみなかった。
僕はずっと、怖かったのだ。
いつかこの化け物が暴れ出して、僕を崩壊させ、誰かを傷つけてしまうことを。
「それでも。僕の化け物は、悪い化け物かもしれません」
度数の高い透明な酒を一気に煽ると、目頭が熱くなった。
「うーん。そんなことないんじゃないですかね。
無くなった定規のことなんて、そいつはもう覚えてないんじゃないですか?・・・生きてるとやるせないことも本意じゃないことも色々あるし、それを食べてくれる奴がいるってことは、幸せなことかもしれませんよ」
アーモンドで満杯になった瓶の蓋が、キュッと音を立てて閉められた。
「どうします?何か新しいの作りましょうか」
空になったグラスを見て、店主が尋ねた。
僕は俯けた顔をそむけながら、グラスを店主に滑らせた。
「おかわり、ください」
「かしこまりました」
店主は何も言わなかったけれど、グラスからじゃない水滴が、二粒バーカウンターに落ちていたので、泣いているのに気づかれたかもしれない。

胸の中の化け物は、酔ったのか短い腕を枕にしてすやすやと眠っている。
ありがとう、おやすみ。
そう小さな寝息に心の中で声をかけ、僕はまた強いアルコールを胸の中に流し込んだ。

4.19 飼育の日
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