8.24 ドレッシングの日
二人がけの黒いテーブルを挟んで、ルリの銀色フォークがまた紫の蝶々を捕まえた。僕は思わず目を背け、彼女が飲み込んだのを見計らって顔を戻したけれど、真っ赤な唇の間に紫の羽のカケラがついていて背筋が震えた。思わず口元を手で隠す。それを見たルリが僕を鼻で笑った。
「そんなに嫌な顔をするくらいなら、そこにいなきゃいいでしょ。部屋に戻ったら?」
ミドリ、赤、黄色、オレンジ、紫、バニラ、黒。絵画のような色合いのサラダがつるりとした白磁の器に収まっている。
「ルリ、ニオイスミレばかりを食べるのはやめてくれよ。どうにも蝶みたいで気持ち悪いんだ。他にも美味しいものを入れてるだろう」
ルリは口紅を塗りすぎたとしか思えない主張の激しい唇を何度か歪ませて、蝶々のかけらを落とした。二匹の毛虫が瀕死のダンスをしているみたいだった。
「ヤングコーンとか、パプリカとか、こんな子供騙しのサラダを黙ってたべてあげてるの。嫌なら時計草とか、アケビとか、そういう私の口に合うものを用意してちょうだい」
ルリはサラダのなかに虫でも入っているかのように顔を歪ませて、銀色フォークの先で乱暴にかき混ぜた。白磁の船の中で色の洪水が起きて、乗組員のいくつかがテーブルの上に落ちた。
「分かったよ、アレを出すからちゃんと行儀よく食べてくれ」
僕は赤いプラスチックの椅子から立ち上がると、つるりとした白い冷蔵庫から僕のぶんの炭酸水と彼女のぶんのドレッシングを出した。振り向けば、ルリが嬉しそうに舌舐めずりをする。
「最初からそうしてよ。味の無いサラダを食べさせようなんて、あなた頭イかれてるわ」
ルリは、僕がテーブルの中央に置いたリコリスのドレッシングの瓶を掴むと、まるで親の仇みたいにじゃぶじゃぶと花や野菜たちを溺れさせていった。それを見ていた僕は、もどかしく苛だたしい気持ちになって、炭酸水の口を開けて一気に半分ほどを飲んだ。
「ドレッシングは三振りまでだと約束しただろう。油と塩分の摂り過ぎは君の身体に悪いんだ」
瓶の中の最後の一滴が紫蝶々の上に落ちると、ルリは悪戯に笑う。
「まるで私のすべてを知っているような言い草ね」
「知っているさ。つまりは、太ってぶよぶよになるよって言ってるんだ。醜いのは嫌いだろう」
ルリはもう僕になんて興味がなかった。瓶の口に残ったリコリスのドレッシングを舐めながら言う。
「貴方って、ほんとうに愚かね。私を女性扱いしない非紳士なんて、いつでも別れたっていいのよ」
僕は肩を竦めて、また炭酸水を一口飲んだ。女性扱いが足りないと彼女は怒るけれど、僕にとってはなによりの女性扱いのつもりだ。彼女には一生伝わらないし、伝えるつもりもないけれど。
炭酸水を飲み干すと、僕は無理矢理に笑みのようなものを浮かべてみた。
「出来るものならどうぞ。ルリが困るだけだから」
目の前の女の子に優しくしたいのに、苛々してしまうのは何故だろう。
無言でルリが投げたドレッシングの瓶が額に当たって瘤が出来た。
頬に散ったリコリスの香りが目に染みて、何だか涙が出そうになる。
僕が造った有機アンドロイドは、バツが悪そうな顔をして白く冷たい唇を僕の顔に近づけると、頬のリコリス味に舌を這わせた。
うっかり涙が出ないよう、僕は急いで彼女を突き飛ばした。
その時彼女の開いた口から飛んだ紫の蝶々は、今でも僕の家の天井裏で静かに羽を震わせている。
824・ドレッシングの日
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