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6.26 雷記念日・露天風呂の日

山間の秘湯と呼ばれる露天風呂に入っていた時の事だ。

夕方の情報番組かなにかで見たその秘湯は、切り傷によく効くのだという。
平日の昼間だったからか、車をだいぶ手前で降りなければならないからか、そこに着いた時は自分一人であった。

「おお、乳白色に溶けた黄色は硫黄かな。ずいぶん変わった色の温泉だ」
川沿いの岩場に誰かに掘られた温泉の脇で、迷うことなくスッポンポンになると、かなり開放的な気持ちになった。
曇天の下、わざわざ高い岩場に立って仁王立ちをしてみた。
自然の風に吹かれた我が身に視線を感じ、慌てて辺りを見回すと白々とした目で対岸からこちらを見ているカモシカと目があった。
相手は動物だと分かっていても、毛皮もツノも持たぬ丸腰の自分が急に心許なくなってそそくさと温泉に引き返した。
「うぉーう。何だろうな、この湯に浸かるという快楽は」
少し熱めの湯に右足から入った。
何も無いところで転んで出来た膝小僧の擦り傷は、最初少しピリリと痛んだがすぐに馴染んで分からなくなった。
「新しい時代が来ても、自然の中で湯に浸かるとか、結局そういうのが一番癒されるんだなぁ」
肩まで浸かって目を閉じる。川の流れる音、葉を揺らす穏やかな風、温泉の香り。そして遠くから微かに聞こえてくる雷鳴。
「…雷鳴?」
「はーどっこいしょ。いやあ遠かった」
川向こうからパシャパシャと爪先立ちでやってきたのは、手ぬぐいで大事なところだけを隠しただけの小さな男だった。
「「ん?」」
目が合って、固まる。
赤い髪がくるくるとアフロのように渦巻く男は、人懐こい笑顔を見せて湯に入った。
「いやいや、すいませんねえ先客さん。ちょっと痺れるかもしれませんが、それがほら、傷に効くんでね」
男が湯に浸かると、たしかに何故か身体がピリピリと痺れる感じがした。
「おお。すごいですね、たしかにこれは効きそうだ」
「そうでしょう?まぁ、雨も近いから十分くらいしたら上がるのがいいでしょうね」
雷鳴のした方を見ると、たしかに山の向こうから黒い雲が近づいてきた。
二人で天気やら、この辺で食べられる美味いものやらの世間話をしていると、あっという間に十分ほどが経った。
「痛みも抜けて、今日はいい日になりました。僕は上がりますが…」
「ああ、私のことは気にせずに。ぼちぼち上がりますんでね。では帰り道お気をつけて」
雨雲と雷鳴はかなり近いところまで来ていたので、慌てて服を着てほかほかになった体で車のあるところまで山を降りた。

車のドアを閉めた途端、はかったかのように大粒の雨が屋根を叩き始めた。
「雨宿りをしてから行くか」
ステンレスの水筒に入れてきた珈琲を飲みながら、フロントガラスを滝のように流れる雨を眺めた。
気づけば、急いで山を降りた割に膝の傷は痛まなかった。
「すごい効能のある秘湯なのだなあ。今日はいい日だ」
だんだんと雨が弱まり、雨雲と雷鳴が遠ざかっていく。
「さーて、帰るかな」
エンジンを入れて、ワイパーを動かす。
山向こうへ消えかけた雨雲の上に、赤いアフロの端が見えた時は大層驚いた。
「まさか、雷様…?」
目を擦って見返した時には、青空が広がって雨に濡れた山の木々が瑞々しく輝いているばかりだった。


6.26 雷記念日、露天風呂の日
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