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3.5 珊瑚の日

気がつくと青彦は珊瑚の森に迷い込んでいた。
先ほどまでは従兄の早彦と共に浅瀬でシュノーケリングをしていたはずだ。
辺りを見回すと従兄の姿はなく、ただ帯のように揺れる光の中で珊瑚の森がきらめいている。
赤や桃色の珊瑚の森は青彦の背丈より大きく、本物の木のような存在感を放っている。
「どうなってるんだろう」
見上げると、水面ははるか遠く雲のごとき高さで、青彦はたゆたって楕円形に千切れる太陽の姿を見つけて息苦しくなった。
反射的な問題だ。水中で息が出来るとは、どういうことか。
「僕は夢でも見ているのだろうか。それとも」
恐ろしい予想が一瞬胸の辺りをよぎったが、しかし青彦はどこかのんびりとした気持ちで過ぎゆく恐怖を見過ごした。
一歩踏み出すと、足下の砂粒がスローモーションのように舞い上がった。やはり水中であることは間違いないらしい。
「わっ」
目の前に突然大きな熱帯魚の顔が突き出してきた。赤に青に緑にオレンジ。全ての色が蛍光がかっている。
魚は真横に付いた片目で青彦を凝視すると、ぐりんと目玉を回してするすると背びれをなびかせて珊瑚の隙間に消えていった。
ほっと胸をなで下ろし、青彦は珊瑚の森の探索を始めた。
途中で海藻に足を縛られたり、イソギンチャクにくすぐられたり、銀色の魚につつかれたりしながらも森の出口へむけて歩き続ける。
しかしいくら進もうとも、珊瑚の森の終わりは見えなかった。
いつまでも太陽は傾く事なく同じ場所で分裂を繰り返し、青彦の口から出た息は透明な泡となり森の隙間を回転しながら上昇していく。
終わりのない森に閉じこめられ、青彦もだんだんと足取りが重くなってきた。
ついにはぴたりと歩が止まり、青彦は近くにあった二枚貝に腰を下ろした。
「従兄さん、僕のことを見つけてくれないだろうか」
青彦は自分が息切れしているのに気づいた。
徐々に酸素が薄くなり、喉元からヒュッと息が抜けるような音が漏れ出してくる。
青彦は後頭部をごつごつとした珊瑚に預けると、眠るように瞼を下ろし、そっと意識を手放した。

「・・・彦、おい、青彦!」
早彦が体を揺さぶると、青彦は眩しそうに目を薄く開いた。
「早彦、従兄さん」
青彦の声を聞いて、早彦は顔を歪めて舌打ちをした。
「何だ、平気そうじゃないか。心配させやがって」
青彦が上体を起こそうとするのを、早彦が肩を押さえて制する。
「急に動くな、お前波打ち際に倒れてたんだぞ。一体何があったんだ?」
額のあたりに冷たい感触を感じていたのは、早彦の冷えた手の平だった。
岩場の影に運び看病してくれていた早彦の方が、体調が悪そうに見える。
顔面蒼白で唇も紫色に変色していた。

「従兄さん、大丈夫?体が冷たいよ」

「俺のことなんかどうでもいい。話をはぐらかすな」
そう窘められて、青彦は珊瑚の森にたどり着く前のことを必死で思い出そうとしたが、千切れて分裂する太陽の像が目蓋を行ったり来たりするばかりで何も思い出せない。
「・・・従兄さん?」
そもそも、この隣に座っている色白の少年は、本当に従兄なのだろうか?
「何だよ。なにか思い出したか」

 狼狽したように目線を泳がせて、早彦は冷たい手の平をずらして青彦の目蓋を覆った。
視界が閉ざされると、遠くに響く波音だけが聞こえて浮遊感に襲われた。
そして青彦はまた、静かに意識を遠ざけていった。
「ごめん、何も、分からないんだ」
青彦は最後の意識を振り絞ってそう答えた。
それでもいいと望む青彦の隣で、早彦は絶望したように口を半開きにしながら、虚ろな眼差しで珊瑚色に赤く熟れた青彦の唇を眺めていた。

3.5 珊瑚の日
#小説 #珊瑚の日 #海 #JAM365 #日めくりノベル

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