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8.18 高校野球記念日・ビーフンの日

ざく切りにしたキャベツと豚こま肉、玉ねぎと人参とピーマンをサラダ油で炒める。油膜をまとって艶やかに輝く野菜たちに負けぬほど、私の額もしっとりと濡れている。
真夏の台所は地獄の暑さだ。いくら冷房をかけて扉を開けていても、目の前で火を使っているのだから熱気はどんどんこもっていく。汗をシャツの肩口で拭うと、流れた一雫がうっかり目の中に入って痛んだ。
居間からはわずかばかりの冷気と共に、突然熱気を孕んだテレビの音が流れて来て苛々する。これはひどい。
「ちょっと良くん、点数取りそうだったら教えてって言ったでしょ!これもうあと炒めるだけだから代わってよ!」
袋から乾燥して固まった麺を出し、鍋に放り込んで水を差す。そしてすかさず蓋を閉める。
居間の方からのっそりと部屋着の良くんが現れた。黒縁の眼鏡の奥で臆病な瞳がきょろきょろと動いている。
「こっちほんとに暑いね。蒸し風呂みたい」
「その蒸し風呂に私だけ放り込んでおいて、良くんだけ高校野球見てるなんて許せない」
蓋の隙間からシュンシュンと白い湯気があがる。こんなに暑い場所でも湯気はあがるのだ。プツプツという音とともに鶏ガラのいい香りが充満していく。
「ごめんね。でも小町ちゃんが作ってくれた焼きビーフンが一番好きだからさ」
ちらちらと居間にあるテレビに視線を泳がせながら良くんが言う。音声だけで判断するに、一度ニュースに切り替わったようだ。
「こんなのね、誰が作ったって一緒なの!味もついてるんだから」
「いやいや、隠し味とかあるでしょ?」
良くんの額にもじわじわと汗の玉が出来ていくのを見て、少し満足した。早く仕上げて、高校野球の後半を見なければ。
「隠し味はこれとこれ!」
蓋を開けるとおばあちゃんになってしまうのじゃないかと思うほどの白い湯気が一気に噴き出した。
すかさず酒を回しかけて蒸発させ、最後にミルから黒胡椒を削り出した。
ニュースをお伝えしました、という真面目一辺倒な声が聞こえて、慌てて火を止める。
「良くん、後はよろしく!」
手を洗うのも忘れて慌てて居間へと駆け戻る。
「小町ちゃんそんなに野球好きだったっけ?」
呆れるような声が追いかけてきたが無視をすることにした。畳に放り出されていた団扇を掴むと無造作に顔を扇ぎ、目はパンのように焼けた高校球児に釘付けになる。
最初は第100回目の記念大会というので何となく見ていただけだった。けれど、いつしか夏が深まるほどにわざわざチャンネルを合わせて正座で見ている自分がいた。
炎天下で繰り広げられる試合模様もさることながら、球児の輝く汗や涙や、高らかに響く校歌、学友からの声援、それら一瞬の青春すべてが込められた、綺麗なものがぎっしり詰まっている場面が眩しかった。涙が出るほど欲しいと思える一瞬が、そこにはある。
そう感じるのは、自分がそのチケットがもらえる年齢から遠く離れてしまったからなのかもしれない。自分が高校生の頃なんて怠惰な夏休みを過ごしていた記憶しかない。
昨日仕事でミスをして怒られた。大人の世界は綺麗なもののかけらを探す方が難しい。それでも自分の足で生きていかなければ行けない私は、その美しい世界から綺麗なもののかけらを集めている。
「小町ちゃん、どうぞ」
盛るのに時間がかかったのか、皿の上の焼きビーフンはもう湯気はあがっていない。
「良くん、お箸も」
良くんはテレビのなかで三対一で追いかけているチームが一二塁にいる状況から目を離さぬよう限界まで後ずさりをしてから、台所に消えた。
そこで、高い音が響いて、勢いよくボールが空に吸い込まれていく。応援席の大歓声と、興奮してまくし立てる実況席の声がわぁっと部屋に広がった。
「良くん、すごい、すごいよ!」
選手たちが塁を回る映像に、良くんの足音が重なる。
「逆転?ホームラン??」
手に汗握る展開とはこのことだ。いついかなる場面でも逆転のチャンスに満ちているのが高校野球だ。
最後のランナーがホームに帰り、点数表示が三対四に変わった。さらに大きな歓声が鼓膜に響く。
「何があるか分からないね、感動しちゃう。夢があるわ、高校野球」
「よし、食べよう!はい、これ」
良くんが渡してくれたのは、お箸とキンキンに冷えた缶ビールだった。
「分かってるね、さすが良くん」
「いえいえ、いつもありがとうね」
それから、ビールを飲みながらビーフンを食べて、高校野球の続きを観た。熱い展開に興奮しすぎて口からピーマンのカケラが飛び出た時は、二人で顔を見合わせて笑った。
大人の夏も、これからだ。綺麗なものをかき集め、二度と戻らない自らの青春に歯噛みしながらも、私たちはいつだって巻き返せるチャンスを持っているのかもしれない。
本気でぶつかれ、本気で楽しめ。
金管楽器のファンファーレに押されながら、小さな白球が大空を駆けていく。

818・高校野球記念日、ビーフンの日
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