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8.17 パイナップルの日

汗をだらだら流しながら、家路を辿る午後一時。ここに温度計があるとしたら、きょうの最高気温を示しているだろう。
鞄の紐が肩に食い込んで痣が出来そうだ。帆布で出来たそれは、袋の部分が丸く膨らんで、はたから見ればまるで赤子が一人入っているように見える。
だが、私に赤子などいない。大学院で教授の手伝いに明け暮れる独身の男に、赤子など作れるわけがない。作る相手もいない。募集もしていない。むしゃくしゃして赤子を攫うほど阿呆でもない。家に居るのは二ヶ月前に転がり込んで来た大型犬一匹だけである。
しかし、きょうこそ出ていってもらう。暑さに苛立つ頭で、いつでも機嫌良さそうに笑う大型犬を想像の窓から追い出した。
それにしても暑い。そして重い。私は普段辞書より重いものは持ち歩かないのだ。目と鼻の先に見えた玄関がやたらと遠く感じる。
思わず脚を止めたその時、玄関が勢いよく開いた。
「あっ、草太おかえりー。きょうすごい暑いね」
出て来た大型犬は、無造作に伸びて潤いのない黒髪をふわふわと揺らしながら笑顔で手を振った。小さく見える白いシャツは、確実に見覚えのあるものだった。肩のあたりが引きつって、胸元が張り裂けそうだ。
「あれっ、何それ。鞄に赤ちゃんでも入ってるの?隠し子?」
げんなりとして立ち止まっている私に変な足音を立てて大型犬が近づいて来た。隠し子発言は突っ込む元気も残っていないので流す。
「おいお前、近所の目があるんだ。便所サンダルで出歩くなと何度言ったら、」
正宗と言う名の大男は、黙らせるように私の頭に手を当て「お疲れさま」と溶けかけの綿菓子のように笑うと、私の荷物を請け負った。というよりも、ただ中身が気になるだけのようですぐに乱暴に口を全開にして中を覗く。
「おい」
「わぁ、すごい。髪の毛も生えてて、随分立派な赤ちゃんだね」
私は聞こえるように出来るだけ大きな音をたててため息を吐いた。あとは荷物を正宗に任せ、最後の力を振りしぼって我が家に辿り着いた。

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「櫛切りかなぁ、輪切りかなぁ。ねぇ草太はどっちが好き?」
正宗は卓袱台の上に置いた赤子ほどもあるパイナップルを優しく転がしながら問う。
「どうでもいい。ちょっと黙っててくれ」
私は畳の上に寝転がり、強にした扇風機の風に色の薄い猫っ毛を混ぜられていた。頭がぐるぐるして吐き気もする。熱中症かもしれない。
「まだ気持ち悪い?ちょっと待っててね」
正宗は廊下に消えると、氷を入れた桶と手ぬぐいを持って戻ってきた。そして、自分が座っていた煎餅ほどに綿がへたった座布団を二つ折りにして私の頭の下に敷いた。枕にされた座布団は正宗の尻の感触が残っているような生温さで辟易したが、喋るのが面倒なので黙ることにする。
目を閉じていると、水が滴るほど濡れた手ぬぐいを額にかけられた。気持ち悪さに、つい起き上がって妖怪濡れ雑巾のようなそれを払いのける。
「おいっ、絞れてないぞ」
「だって俺の力で絞ったらすぐにカラカラになっちゃうよ?」
「加減をすればいいだろうがバカ」
「はいはい、草ちゃんはお姫様なんだから」
不服なあしらい方に盛大な舌打ちをして寝転ぶ。一銭も払わずに貧乏教授見習いの家に居候しているのだから、文句は言わせない。
正宗は何度か絞りなおしたり、自分の頬に当てて確かめたりしてからそっと額に冷えた手ぬぐいを置いた。
「なんだよ、やれば出来るじゃないか」
「時間かかったけどね」
正宗がふにゃりと眉を下げて笑う。その姿がなんだか情けなくて、つられて笑みが溢れた。それを見た正宗が目を見開いたのが不思議だ。
「草太ってこの子みたいだね」
正宗の太い指が卓袱台に置いたパイナップルを撫でる。
「俺の猫毛に対する嫌味か」
寝返りを打って背を向ける。これ以上付き合っていられない。
「寝る。静かにしとけよ」
「はーい。パイナップル、冷やしておくから起きたら一緒に食べようね」
背後で立ち上がる音と涼しげな水音が聞こえた。トゲトゲの赤子は氷水のプールに入れて運ばれたようだ。瞼が重い。もう眠ってしまおう。

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台所のシンクの上にパイナップルの入った桶を置く。もう少し氷を足せば、草太が昼寝から覚める頃には食べ頃になりそうだ。
「あんなに言葉は刺々しいのに、結局おれに甘いんだよね。甘々すぎてたまに心配になるよ」
正宗はシンクの奥にある窓を開けて風を通した。汗で濡れた前髪を払い、冷凍庫から追加の氷を出すと、一つを齧って残りは音のならぬよう優しく水の中に滑らせた。
「あれ、そういえば君、結局どこの子?…まぁいっか。俺もひと眠りしよっと」
窓の外では蝉の合唱が始まり、いつもと違う夏がいつものように過ぎていく幸せに静かに目を細めた。

817・パイナップルの日
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