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4.5 ヘアカットの日

いつもは休日に行くけれど、金曜日の夜仕事帰りにバスに乗って駅前にあるお店まで髪を切りに行ってみた。
日が長くなったので、六時半でもまだ少し空に明るさが残っている。
まだまだこれから明るくなるんだろうなと思って、私は嬉しくなる。
夜が嫌いな訳ではないけれど、夏に向かって段々と日が長くなっていく感じは毎年私の心を元気にするのだ。

駅前の雑踏を抜け、長く真っ直ぐな階段を上がって美容室のガラス扉を開ける。
この瞬間、いつも私は緊張している。
「予約した、片寄です」
いつもの美容師さんが迎え出てくれて、私はほっと胸を撫で下ろした。知らない人は苦手だ。大人になっても、社会人になっても。

「春だからさ、ちょっと明るくしてみない?」
「え?いやいや、恥ずかしいですよ」
結んでいた髪を解いて鏡の前に座ると、美容師さんは私に思わぬ提案をしてきた。
私が春だから髪を明るくなんて、キャラじゃないし自意識過剰みたいだ。
両手をぶんぶん振ると、美容師さんは「そっかー、似合うと思うんだけどな」と言いながら諦めてカットに入ってくれた。
しかし、頑なに「いつも通りで」という私の要望は無視され「カットだけでも春っぽくします。可愛くするからやらせてね」と押し切られてしまった。
そわそわする気持ちで雑誌に目を落としながら、とりあえずプロにお任せすることにした。
私は変化に弱い。というよりも、変化したことを周りにどう思われるだろうと思うと怖くなってしまう。
月曜日に出社する朝にネガティブな妄想が湧き上がって気分が落ちてしまうことも多い。
「なんか不安そうな顔してるけど?信用ないなー俺」
手先を器用に動かしながら、鏡越しに美容師が苦笑いをした。
「あっ、いえ!その、なんていうか…可愛くなるとか、そういうの恥ずかしくて」
正直な気持ちが口から走り出して慌てた。何を言っているんだ私は。
「すいませんっ、そんなこと言われたら困りますよね」
美容師さんは「そうだねー」と言って明るく笑うと、そのまままたカットに戻った。
可愛くするのが仕事の人に失礼な事を言ってしまったと、私は落ち込んだ。
可愛くなりたくないのなら、家の風呂場で自分で切ってでもいればいいものを。そのくせ変にはなりなくないから美容師のところに通うのである。
ちらちらと盗み見た美容師の姿は、さすが接客のプロというか、全くいつもと変わりがなく見えた。

しばらくして、私の髪型が完成する。
「さっ、見てみてー。ジャーン!」
美容師がケープを外してくれると、そこには新しい私が用意されていた。
同じようで、少し違う。前髪も横に流れる形になり、軽めの段にコテでウェーブがかけられて、先程までより柔らかな印象になっている。
「どう?」
「ありがとうございます。なんか、ちょうど良く可愛いです…」
「でしょ?急激に変えると片寄さんパニック起こしちゃいそうだったから、徐々に可愛くする作戦にしました!」
美容師が腕を組んでうんうんと頷いた。
「ありがとうございます。あの、さっきは失礼なこと言ってしまって…」
もごもごと口を動かすと、美容師さんは大口で笑ってくれた。
「いいのいいの!変化って、怖い人は怖いから。ちょっとずつ慣れていこうね」
椅子の背をポンと叩かれて、私は目が醒める思いがした。

お会計を終えて外に出るとおやつを食べ損ねていたせいか、くぅとお腹が鳴った。
そして、真っ直ぐ家に帰る予定だったけれど、初めて一人で飲みに出かけてみようかと思えた。
「よし、小さな変化!」
腹の底に力を入れて踵を返し、私はきらめく夜の街に繰り出した。

4.5ヘアカットの日
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