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2.18 嫌煙運動の日

ただ少し、煙草を吸っただけなのに。
俺は、取材相手との待ち合わせの時間潰しのために入った動物園で恐ろしい目にあうこととなる。

平日の夕方、その動物園は奇妙なほどに静かだった。
「うわ、ここ大丈夫かよ」
古びた鉄柵の中で、人に見られている意識もなく、動物たちは静かに呼吸を繰り返していた。もう、観察してくる人間という存在を忘れているかのような静けさだった。
狭い動物園で、一周するのにそれほど時間はかからなかった。それでも、都会の街中にあるにしては立派なもので、存在自体を知らなかったのが不思議なくらいだ。
しかし、この様子だとかなり経営は厳しいのだろうなと予想される。
閉園危機の動物園の実態に迫る!なんて記事の見出しが頭をよぎって俺は知らずにやにやとした。

その後の俺の行動は、本当に出来心だったのだ。
「あーあ、しけてんなぁマジで」
誰もいないのをいいことに、歩き疲れた俺はライオンの檻の前にあるベンチに座り、煙草に火をつけた。
立ち上った紫煙が緩い風を受けて、そのまま細くライオンの檻に流れていく。
雌のライオンは、さすがに嗅覚が鋭いのか匂いを感じて俺を睨みつけた。よく見れば、足元にはまだ小さい赤ちゃんがいる。
「おお、珍し。ライオンの赤ちゃんってどんなだ?」
咥え煙草で檻に近づき、赤ちゃんライオンを覗きこんだその時だった。
「…え?」
視界がぐるりと反転し、俺は小さな檻の中に閉じ込められていた。
「いや、いやいやいや、え?」
事態が飲み込めない俺の周囲を、母ライオンが苛立たしげに徘徊している。
思わず口から落ちた煙草を、母ライオンが前脚で遠くに蹴りあげた。
俺は恐怖に身をすくめた。眼前で、母ライオンはベルベットのような滑らかな眉間に皺を寄せて、赤い口内を露わにしている。
目を逸らせば、後ろにぴったりとくっつくまだ目の青い赤ちゃんライオンがいた。
「おい、小僧。お前何やったか分かってんのか、あ?」
ドスのきいた女の声は、明らかに目の前の母ライオンの喉から聞こえてきた。青くなって返事をできずに震えていると、母ライオンは苛立たしげな間の後で俺に向かって吼えた。唾が飛んできて、俺の顔を濡らす。
「す、すいません。すいません」
母ライオンは、赤ちゃんライオンを守るように擦り寄ると、そのまま親子でどこかに立ち去って行った。
俺は、安堵するのも束の間、今度は一人になった恐怖に襲われた。
「いやいやいやいや、どうすんだよこれ、誰が開けてくれんだよ?た、助けて!」
檻に閉じ込められた俺は、力の限り柵を叩き、喉が枯れるまで助けを呼び続けた。

しかし、無人の動物園では誰からも返事は無く、閉園を告げる七つの子のメロディが赤くなった西の空に響いた。

2.18 嫌煙運動の日
#小説 #嫌煙運動の日 #動物園 #JAM365 #日めくりノベル

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