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8.11

目を覚ますと、家の前に山が出来ていた。夏の日射しを受けて、青々と輝く山の裾野は、僕の家の玄関前でなだらかに始まりを迎えている。
もしかすると眠ったまま熱中症になって、幻覚を見ているのかもしれない。
僕は寝間着のまま呆然とあたりを見回してみたが、それでも赤い屋根の二階建ての家はやはり見慣れた僕の家であったし、山は山としか言えないような立派なものであった。
僕は頭を抱えた。山の出現によって、お気に入りの僕の家はすっぽりとその影に飲み込まれてしまっていた。僕の家はそれほど大きくはない。それに比べて山は大きすぎた。
「これは由々しき問題である」
独り言でも言わないと正気を保てそうにない。僕は寝間着のまま玄関前を歩き回りながら、一人会議を行うことにした。
「昨日寝る前に山はあっただろうか」
「いや、無い。明日の天気を案じながらカーテンの隙間から空を覗いたじゃないか」
「そうだったな。その時はここは野原で、綺麗な星が満天に輝くのを見たのだ」
「では、寝ている間に誰かがここに山を持って来たのだろうか」
「さすがの僕でも起きるだろうよ」
「やはり、熱中症による幻覚だろうか。それとも、まさかもっと悪いことに…」
一人会議に暗雲が立ち込め、僕は一人で唾を飲み込んだ。
「何にせよ、勝手に山が出現して僕の家が万年日陰になるのは困る。考えただけで、僕の心までじめじめして黴が生えてしまうよ」
「ではどうする」
「上から順に土を運んで、平らに均してしまうのはどうか」
「一体何年かかるんだ」
「そうだろうが、何もやらないよりはマシだろう」
僕は一旦家に戻ると、顔を洗って登山服に着替えた。この登山服は父親の物で、十年ぶりくらいに衣装ケースの奥から引っ張り出したが、そこここに虫喰いの穴が空いていた。しかし、寝巻きよりは随分良い。
朝食用に作っておいたおむすびを弁当にして、水筒に水を入れた。僕はとりあえず山の頂上に様子を見に行って、もし首尾よくいけば幾ばくかの土を持ち帰ろうと考えていた。
リュックを背負って家を出る。家の前からすぐに登り坂になった。見上げれば、温い風が吹くたび揺れる濃緑の葉群から落ちる木漏れ日が、なにか宝石のように眩しい。足もとには緑陰が涼しげに戯れている。僕は緑陰の揺らぎをじっと見ながら山を登り始めた。
見た目よりもなだらかな道だったが、それでも僕は息を切らしながら山頂に辿り着いた。鬱蒼とした木々の山道を抜けると急に視界が開けて、まるで腰掛けて休憩してくださいと言わんばかりの具合のよい大石がひとつ転がっている。空は青く突き抜けていて、朝から日陰に包まれていた僕はたっぷり注がれる日射しにようやく目が覚めた思いがした。
石に腰掛けて水筒の水を飲む。腹が減ったので持参したおにぎりを頬張ると、僕はようやく落ち着いて景色を見ることが出来た。
僕が見たのは、水平線と、それを囲むように乱立した白い港町の平和な盛夏の正午だった。町並みのあいだから覗く赤と白の縞々の煙突から、雲ほども白い煙がのんきに立ちのぼっている。
「あの町は、きっと、弟が働く町だ」
食べかけのおむすびを持ったまま、弟からたったの一度だけ届いた手紙を思い出していた。
「赤と白の縞々の煙突を見ながら仕事に行くと行っていたね」
「まさか同じ景色を見ることが出来るなんてなぁ」
「知ったらあいつ驚くだろうね」
日を浴びすぎた僕は今度こそ本当に熱中症になったようで、くらくらする頭を抱えながら残りのおにぎりを頬張った。山鳥の鳴き声が、高い空に響いている。

おわり

811・山の日、がんばれの日
#小説 #JAM365 #山の日 #がんばれの日

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