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3.20 LPレコードの日・サブレの日

店に入ると、くたびれたビートルズのTシャツにぼろぼろのジーンズを履いたヒゲの店主が気怠げにこちらを見た。
じろじろと僕の姿を観察した後で、彼は黙って店の奥の暗がりに案内した。

何度か通っていても店内の全貌は薄暗すぎて分からないが、どこも同じように半個室に仕切られた部屋に高そうなベルベット地のクッション入りの壁紙が貼られている。
お金持ちの家のソファを集めて解体して継ぎ合わせたような、そんな感じだ。
今日の僕は運が良かった。初めて一番奥の半個室に通された。ここなら人通りが少なく集中することができそうだ。

座って少し待つと、店主が銀のトレーに熱い珈琲と二枚のサブレを載せた皿を運んできた。
店主が黙ってセッティングし終わると、僕は家から持ってきた四つ折りのメモを彼に渡した。
彼はその場で紙を開くと、そのメモを穴が空くほど凝視して、また几帳面に四つ折りにたたみ直して僕に返した。
僕はそれをみている間に啜った珈琲で口の中を火傷してしまったので、珈琲が冷めるのを待つ間に手持ち無沙汰になってサブレに手を伸ばした。
なんの変哲も無い、普通の色のサブレだ。パキリと割るとその音が思いのほか大きく響いて、僕は少し飛びあがって急いで辺りを見回した。
壁に囲まれているので周りは見えなかったが、怒りの気配は感じなかったので胸を撫で下ろす。
きっと皆今ごろ自分の世界に集中しているのだろう。
今度は慎重にサブレの欠片を口に運び、唾液でゆっくりと溶かした。

一枚のサブレと半分の珈琲を飲んだところだった。僕の席に足音もなく店主が戻ってきた。
分厚すぎる絨毯は抜かりなく音を吸収してくれているようだ。
店主は、僕に見えるように胸のあたりでその真四角のジャケットを掲げた。
それは、僕が指定したレコードに間違いなかった。
僕が頷くと、店主は狭い半個室に身体をねじ込んで僕の前のレコードプレーヤーに取り出した円盤をそっと乗せ、慎重に針を落とすと蛸壺から抜け出すタコのようにぬるりとまた廊下に戻った。
擦れるような音がいくつかした後で曲が鳴り出すのを確認すると、店主はそのまま入り口の方角に消えていった。きっとまた店番に戻るのだろう。

ここのレコードは、他とは違う。音楽を聞いているだけのはずなのに、目を閉じると映像が見えてくる。
僕はオープニングから見逃すまいと慌てて目を閉じて、耳から入ってくる音に集中した。
ジリジリと光の帯が集まった後に、まぶたの裏にさざ波が見える。そして、その波が波打ち際を歩く少女のくるぶしを濡らす。
三十分ほどの別世界。現実などどこかへ消えて、ここで夢のような時間を過ごす。
集中力が切れると映像も消えてしまうので、店に通い始めた最初の頃はろくに映像を楽しめなかったが、今は違う。
LPレコードの長さにも耐えうる集中力がついた。僕は割といつも運がいいので、その集中力のおかげで学校のテストの点数もほとんどが満点になった。おかげさまで人生は芋づる式に好転している。
珈琲の香りと、口に残るビスケットの甘さが、映像にレトロな色を添えている。僕は満足して鼻から細く息を吐いた。

画を見るように音を聴く。興味のある人は誰でも、よければ鍛錬してからぜひ遊びに来るといいと思う。
ここでは倫理も道徳も必要ないくらい、ただ純粋な音楽を観る事ができる。

3.20 LPレコードの日、サブレの日
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