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5.6 エスカレーターの日

地上三階から地下二階まで、直線的にのびたエスカレーターで下る。
淡い桃色の手すりの質感を、僕はもう嫌というほど知っている。
いつも地下から昇ってくるのは、色白で眉が太めの顔がはっきりとした美人だ。
灰色のジャケットを着た僕は、地上二階を通過するころ、緊張から反射的に襟の位置を直す。

今日の彼女は体のラインが出た黒いレースのワンピースだ。
腰から尻へかけた妖艶な曲線が、遠くからでも僕に黒猫の背中を思い起こさせた。
小さな振動とともに近づく二つの体。

彼女はまだ僕の視線には気づいておらず、ストレートのバストラインまである黒髪をシャンプーのCMみたいに肩の後ろに流した。
むき出しになった鎖骨に、細かいラメが光る。
桃色の手すりを掴む骨っぽい手には中指に銀の指輪がはまっている。
二人の距離があと二メートルというところで、僕は彼女のネイルが濃紺であることを確認した。残念ながらここまで見た全てが、いつもの彼女と変わりない。
一メートル手前で交差する視線。
彼女はヌードベージュの口紅をたっぷり塗った唇で、僕に何かを言おうとした。

「               」

彼女の言葉は聞こえない。
僕はいつもこの長いエスカレーターを下り、彼女は昇っている。地上と地下の境で、その上下は逆転する。
進む方向が逆になることもなければ、彼女が何かを言い終わるまですれ違わずに待つことも出来ない。
地下二階に着くまでに、今日の彼女の特長を反芻して脳に覚え込ませなければならない。
すれ違う彼女は、いつも一点だけ違うところがあるはずなのだ。
たとえば髪の長さ、服装、爪の色、口紅の質感、あるいは瞳の色素の薄さ。
それに気付くことが出来ると、すれ違いざまに一音だけ彼女の声が聞こえるのだ。
「ア   マ デ   ウ  」
今までに集めた音はこの四つ。
これがすべて揃った時に、この終わりのない悪夢から逃れられるのだと僕は信じている。
根拠は無いが、今のところこの世界で訪れる変化はそれしかない。
チャンスは一日一回。
絶望的な気分を押し殺して、僕は毎日エスカレーターを下る。すでに何百回これを繰り返したか分からない。
どこへ帰りたいのかなど忘れてしまったが、ここでは無いどこかへ行きたいという思いだけは確かだ。
止まらないエスカレーターは、僕を地下二階へと運び続ける。彼女は半永久的に、地上三階へと昇り続けている。

5.6 エスカレーターの日
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