ウィル・スミス平手事件を見つめなおす


あれからずいぶん長い時間が経った。
あの時は、アメリカ国内ではスミス非難の嵐が巻き起こり、
日本国内ではスミス擁護の意見が中心となった。

あらかじめ伝えておくが、わたしはジェンダー論については、不勉強なのでとても意見などを言える立場にないと思っている。
また黒人の権利問題についても同様で、それについて意見を言うつもりはない。

平手打ち事件にまつわる様々な意見を読んでいく中で、日本においてのこの問題の核心は、善悪という枠を超えた、なかなかに深刻なものなのではないか、それなのに「文化の違い」といった伝家の宝刀で斬り捨てられてしまった日本人の疑念は、ほんとうに正しく考察されなくてもよいのか?

と思ったのである。

かみ砕いて言うと、この問題は消化不良に終わっている。
そこに本当の意味を見出ださずに、アメリカと日本はなんか違うよね、で済ませてしまってもよいのか? と思う。

(ここで「世界」といわずに「アメリカ」と言ったのは、アメリカの常識を世界の常識と捉えてほしくないからである。事実はまったく違う)

ここで一つ前提のお話をしたい。

みんなちがって、みんないい。金子みすゞ氏の有名な詩で、小学校では必ず習う。
このような文化対立の際、必ず話題になるのがこのテーマであるが、わたしは基本的にはこの命題に賛成である。

ただし、思考を停止するものであってはならないと思う。
誰も納得いっていないのに、対立を強制的に終了させるための伝家の宝刀であってはならないと思っている。
対立があるならば、話し合わなければならない。
できる限り、お互いのことを話しあい、歩み寄りがなければ、こんな文言など邪魔なだけだ。

話を戻そうと思う。

スミス擁護派の意見のほとんどは、人道的なものであって、よく言えば正常な倫理観に基づくもの、悪く言えば文脈を見ておらず、やや的外れだという反論を受けている。

スミス非難派の意見は、まったくの逆で、文脈的に考えたうえで、スミスはやりすぎだとか、暴力はいけないとか、授賞式の空気をぶち壊してしまったとかいうもので、こちらは文脈を理解できているが、正常な倫理観からは外れている。

そも(自分自身に反論するようで、恥ずかしいが)正常な倫理観とは何ぞや?

それは一人一人を取りまいている環境によって形づくられるもので、それを「空気」とか「教育のたまもの」などと言い表したりする。

つまり、そこに対立のキーが潜んでいる。

平たく言えば、アメリカでは問題視されるような行為であったのだが、日本ではむしろスミスの行為は情状酌量の余地があるのである。

それはアメリカの倫理観を形づくっている「空気」と日本の空気が違うからである。

最初の「みんな違って~」の話に戻ったじゃないか、と思われるかもしれないが、ここで話を終わらせたら、わたしも思考停止者の仲間入りということになるだろう。

話をここで終わらせたくないから、今こういう話をしているのである。

アメリカと日本は違う。その前提は受け入れなくてはならない。

日本人が口をそろえて非難した男、今回の被害者のクリス・ロック氏は、アメリカではその後いちやく時の人に。

これも日本人からしたら怒りが溜まる出来事であったが、もちろん何名かその日本の人々の気持ちが分かるアメリカ人が、解説を試みている。

そこでよく言われたことが

1,アメリカにはブラック・ジョークの文化があるということ。
2,黒人が黒人をバカにした。これは政治的に問題ない。
3,セレブは中傷の的になることを、しばしば耐えなくてはならない。

この3つである。また事件の背景について、
1,スミスは奥さんとうまく行っていなかったこと。
2,奥さんは有名になりたがっていてやや顰蹙を買っていたこと。
3,奥さんに対する侮辱を、スミス本人が晴らすのは、女性を保護対象と見ていると取られかねないこと。

ややこしいが、つまりこういうことである。

スミス氏は奥さんの悪口をいわれて、平手打ちに臨んだが、それが奥さんの怒りを恐れてのパフォーマンスだったと、アメリカの人々は思っている。

またクリス・ロックには長年の実績があり、スミス以外のセレブはどんなきついジョークにも笑って耐えてきたのに、なぜスミスは我慢できなかったのか。

また、そのような個人的事情をパブリックな場で晴らすのは、とても紳士的とは言えないのではないか。

ひいては、アカデミー賞をも侮辱していることになるのではないか?

そういうことである。

複合的な問題が絡んでいるが、その割に社会の反応が一方的、かつ過激だったのが、いまいちすっきりしない点だろう。

スミス氏は今後10年のアカデミー関係のイベントに参加することを禁じられた。

社会的なバッシングもかなり強かった。

その措置の過激さに異論は唱える人は、せいぜい無名の一般人、といった程度で、アメリカのセレブは誰もそれに異論を唱えなかった。むしろ、もっと厳しい罰を、という声がチラホラ見えた。

クリス・ロックは評価が爆上がりして、その後のショーのチケットはとんでもない額にまで値上がりしたそうである。

これでは何もスッキリしない。日本人が怒るのも無理はない。
社会的な正義が行われず、なにかおかしな都合で捻じ曲げられた、と感じられたからである。

わたしも同意する。というか、アメリカはずっと前から変な国ではある。
すこし面白い話がある。

イギリスにかつて『パンチ』という風刺漫画雑誌があって、そこにかつてのアメリカについて書かれたものがある。

上の画像は、ブルーマリズムといって、アミーリア・ブルーマーというアメリカの女性解放指導者が、啓蒙のために身に着けて、イギリスを歩いたという服である。
「女性は保護される対象であってはならない! わたしたちは服装から新時代を取り入れているんですの」
そんな訴えを、ロンドンの貴婦人たちは嘲笑と軽蔑によって迎えたという話だ。

これがアメリカである。文化が先にあるのではなくて、すべてはポリティカル・コレクトネスなのである。文化はそれに追従していくものという考えだ。

ここに今回の件を紐解く、ちょっとした考えが浮かび上がってくる。

ウィル・スミスはアメリカの「タブー」に触れたのではないか、ということだ。
それはいくつもある。

1,公衆の前での暴力
2,ブラックジョークの否定(あるいは見直しの要請)
3,女性の権利というポリティカル・コレクトネスの内容の見直し

である。
言うまでもなくアメリカは暴力的な国である。

「分からなければ、分かるまで殴ってやる!」
そういう外交を、アメリカは散々してきたではないか(アメリカの歴史を見てもそうである)。
しかし、「それは言わないお約束……」なのである。
それをスミスは破ってしまったというわけだ。

ただし、暴力はこの問題の本質ではないと思っている。
実際の暴力のほかに、言葉の暴力というものもある。実際、クリスの言動が問題ないと言っている人はいない。
「クリスも悪かったけど……」という前提がつけられるのがほとんどだ。

この辺はスミスが逮捕されていない理由にもなっている。

ならば、ブラック・ジョークの否定なのか?

これは実際、かなりありそうな話である。

アメリカ人たちの意見でも、ブラック・ジョークを見直すべきだという話はほとんどない。

「それは仕方ないよ。だってそれが文化なんだから……」

こういうわけである。
「人の身体的特徴をあげつらうのはいいことなのか!」と日本人が息巻いても、

「だって、文化が違うし……」

でバッサリ切ってしまう。その国の文化を愚弄するのはよくない!と逆に怒り出すときもある。

つまり、それが「アメリカ」なのである。
スミスはそこに疑問符をつけた。だから叩かれたのである。

アメリカは格差がとんでもなく大きい国で、それは日本に住んでいるとさっぱり分からない。日本にも格差はあると思うが、アメリカと比べたら、まったくかわいいものだ。

アメリカのセレブも、とんでもない金の使い方をする。だからヘイトがそちらに向くのである。国民からしたら、司会者の人にでもバカにしてもらわなければ、やり切れないのかもしれない。

ブラックジョークを変えよう、と言われたら、恐らくほとんどのアメリカ人は反対するだろう。貴重な文化なのだからというのもあると思うが、それが今まさに「必要」だからである。

日本人からすれば、差別はよくないと宣伝している国が、なにを二枚舌のようなことを言っているのかと思うだろう。

まったくそのとおりである。おそらくそう言われたら、ほとんどのアメリカ人は黙り込むしかないだろう。

しかし「差別はよくない」と言いながら別の場所で差別するのがアメリカという国の現状であって、その現状を分かっているアメリカ人からしたら、日本人のいうことは、部外者の説教というふうにしか聞こえないだろう。

BLMが日本で流行らなかったのは、日本に差別問題がほぼないからである。それをアメリカ人は分かっていて、すこし歯がゆい視線で見ている。

「どうして日本人はそんなに……」

能天気なんだ? と言いながら、きっと心では分かっている。冷静なアメリカ人はきっとすべてに気づいているだろう。

女性の権利という話題においても同じである。
女性の権利が高められるのは異論がないが、それはどこまでか、という「程度の問題」になってくると、それは紛糾する。

アメリカにおいては、文化面までもポリティカル・コレクトネスに当てはめようとするから厄介である。
本来ならば、女性の社会的進出などといった、政治経済的な問題に限られてもいいはずが、日常でも女性は男性らしく振るまわなくてはならないとするのがアメリカである。

映画やテレビゲーム、漫画、CMの話になってくると、もっとおかしなことになる。それが俗にいう「ポリコレ問題」で、昔ながらの伝統的な価値観は、積極的に破壊しましょうと言わんばかりだ。

文化大革命と何が違うのか、という意見もきく。

そこに待った、をかけたのがウィル・スミスの平手打ちだったのかもしれない。
妻の名誉は、夫の自分が回復する。

単なるパフォーマンスだったとしても、それを容認しては、アメリカは困るわけである。
それくらいポリティカル・コレクトネスはもはやタブー化してしまっている。ブレーキのない車に乗っているようなものである。

面白いのが、上の画像に挙げたように「Right to Protest」は美談とされても、それに反対する「Right to Protest」は認められていないことである。

それもアメリカ人にとっては、耳が痛い話だろうと思う。

日本に「少子高齢化」「労働問題」「男女不平等」などといった問題があるように、

アメリカも、問題と分かっていながら変えられないものがある。
それはその国の体質と、ほぼ同化しきってしまっているような問題であるだろう。

暴力と移民によって生まれた新しい国なのだから、様々な問題と矛盾をはらんでいるのは、もはやどうしようもない。

スミスのしたことは、十数年後になって、もう一度再認識しなくてはならない時がやがて来るだろう。アメリカは、あの時のスミスに対して行った決断を、正しかったと自信を持って再び言うのか、それとも間違っていたと反省するのか、どっちなのだろうか。

しかし、恐らくだが、それを見てもやっぱりアメリカは変わらないな、と世界中の人は考えるのだと思う。

どうだったろうか。

平手打ちは、単なる平手打ち。しかしその場を取りまく状況が複雑すぎて、大きなもやもやを残すことになった事件。

わたしが言いたかったのは、単純に「文化の違い」と言い切って満足してしまうのではなく、またあくまで日本流に「スミス偉いぞ! クリスは最低だ!」ということで満足してしまうのではなく、アメリカと日本というその違いを理解するために、ちょっと頑張ってみるだけで面白いものが見えてくるかもしれませんよ、ということだ。

おしまい。


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