オタクは分かりあえる?

「オタク」というと、2000年から続く日本の大問題かもしれない、と思うのですが、浅学であるわたしでは、たかだか、自分の体験を語ることしかできません。

以下、駄文ですが、がんばって書きます。

とある日常系の漫画を読んでいて、ふと悲しくなったことがありました。
「オタク」というライフスタイルが共通する、男女がいて(友達以上恋愛未満です)、ほのぼのオタ活をしながらラブコメをするのですが、ある時有名サークルの知り合いから電話がかかってきて、コミケの売り子を頼まれたので、男女二人で行くんですね。
そこで有名絵師さんから、好きなものをこうして伝えられて、共有できて最高に楽しい! と熱弁されて、なんとも和気あいあいとした形で幕を閉じるのですが、わたしはそこで、とあることを思い出して、悲しくなってしまったのです。

むかしわたしには友人がいて、とつぜん、コミケの売り子をしてくれないかと頼まれたことがあります。
コミケとか、同人誌とか、コスプレなどといったことにはまったく興味がなかったわたしは、それを断ってしまったのです。

友人とは疎遠になってしまいましたが、「好き」というものを分かりあえる漫画のキャラクターたちと、結局分かり合えなかったわたしたちが頭のなかで並んで浮かび上がって、疎外感を抱いて、悲しくなってしまったのです。

わたしは「オタクか」と尋ねられたら、よくわからない、と言うしかありません。当然好きなものはありますし、語らせると面倒くさいものはあります。わたしは文学好きで、かつてヘルマン・ヘッセとか、ゲーテについて、女友達と語り合ったことがありますが、その時の嬉しさは、いまでも覚えています。かけがえのないものでした。
しかし、世間的に見れば、ややマイナーな趣味ではあります。とある辛抱強い友人に、バルザックの『ゴリオ爺さん』のあらましを、30分かけて語ったことがありましたが、友人は興味は持ってはくれたものの、どこか「わたしのために無理して合わせてくれている」感があって、結局すまないことをしたと反省したことがあります。

ですから、わたしは「分かり合えることは素晴らしい」と思いつつも、どこか「分かり合えない自分」に気づき、さみしく感じてしまったのです。

実は、わたしは小説を書いていて、むかし二次創作のネットのコミュニティに参加していたことがあります。そこで作品を見せあって、感想を送りあったりしていたのですが、ずいぶん楽しかった半面、「趣味での創作」というものの持つ障壁にぶち当たることになりました。

彼らとは、目指しているものが違いました。
わたしはとにかくクオリティを、原作と相違ないレベルまで高めることを目指していました。
彼らは自分が書いていて楽しい、と思えるシチュエーションを書いて、じゅうぶん満足でした。
わたしは気軽に気になった点を挙げていくと、彼らにとっては、絶対に容認できない指摘がいくつか入っている、と憤慨し、残念がりました。

もちろん、こういったことはすべて「程度の問題」です。
趣味といえど、指摘は嬉しい、という方もいますし、「自分の好きなシチュ」を書いているだけだよ、と謙遜される方でも、プロ並みの筆力とおもしろさで圧倒される場合もあります。また逆もしかりです。

ただ「程度の問題」とはやはり、けっきょく価値観のぶつかり合い、「趣味なんだからこれ以上は無理」「趣味だとしても、これはヒドイ」といった価値観のバトルになってしまう、ということです。

それからは、わたしはできる限り褒めるポイントを探して、そこに批判点も混ぜてみましたが、結局本心ではまったく違うことを考えていますし、それが文面に出てしまったのでしょう、上から目線なわたしの書き方に、怒り心頭な方が続出して、わたしは、自分からコミュニティを去りました。

話を戻すのですが、わたしは正直にいって、お金を払ってでも読みたいと思える同人誌がある一方、「これにお金を払うのはちょっと……」という同人誌もあると思っています。
そこに「好きなものを書いてなにが悪い! いやなら見なきゃいい、批判するな!」という見方があるのはわかります。それはまったくもって、おっしゃるとおりで、好きな気持ちを否定する気持ちはありません。そしてそれで、いくらでも活動していただいて、なんにも問題はないと思います。それを読んで楽しい気持ちになれる方がいる、それだけで続ける価値はあります。

しかし一方で、果たしてわたしはオタクなのか……? という思いもあります。昨今のオタク文化を見ていると、オタクというのは、大衆的なものではないコンテンツに好きな気持ちがある、というだけで「オタク」となっているような気がします。
そして何より、オタク同士、お互いを認め合い、褒めあう文化があるような気がするのです(これはわたしの勘違いかもしれません。漠然とした気持ちです)。

オタクであることは素晴らしい、推しがいるって幸せ、これを語り合いたい、あれを語り合いたい……でも、わたしは彼らの熱狂の外にいます。べつにそれを誇りに感じはしません。ただ、わたしは「オタクではない」と宣告されたような気がするのです。

そうすると「語り合える趣味がないなら、あなたの価値はいったい……?」と誰かからそっとささやかれているような気がしたのです。

先ほどの漫画では、オタクの趣味を語り合える仲間たちがいます。「好き」を共有できることって素晴らしい! とありますが、わたしはそこに何か、現代人の抱える「心細さ」を見たようで、そしてそれを大衆的なもので埋め合わせようとしているように思えたのです。

ここでうがったことを言いますが、わたしは現在の大衆的なものと、サブカルチャーものが、逆転しているような現象が起きていると感じています。アニメ・漫画・劇場版映画は、テレビドラマ・バラエティ番組を上回るコンテンツと化しており、大手Youtuber、Vtuberは、中堅アイドルと並ぶ集客力を持っていると感じます。
わたしは、発祥がサブカルなだけで、もはや大衆文化と化したものが、ぎゃくに「オタク」という肩書きにあいまいさを与え、居場所がほしい人々の、安らぎの場所に使われているような気がしたのです。

彼らは彼らで真剣ですから、それは別にいいのです。しかし、なんだか、それによって追い出されてしまった同じ「オタク」の方々は、どうなるんだろう……? と思ったのです(わたしのことですが)。
わたしは好きになった音楽はずっと聴いているたちで、好きな作家の本をとにかく読むとか、漫画だったら好きな漫画家の、ほかのシリーズも読んでみたくなるとか、でも突然きっぱりとやめてしまうような、そんな適当な人間です。すべて気分次第ですが、おそらくおおよその潮流からは外れているのではないか、と思っていまして、ただそれでも個人的な「好き」の感情の中をぐるぐる回っていて、幸せな人間です。

もちろん誰かとその感情を共有できれば、さいこうに幸せですが、わたしの「好き」な空間は、やはり真ん中に文学や美術があって、それを伝えるとなると、あの無理してわたしを理解しようと頑張ってくれた友人の顔が思い浮かんでしまって、怖くなってしまうのです。

きっぱりと「つまらん」と言われるのも怖いですが、無理してがんばって合わせてくれて、つらそうにしている友人を見るのは、ほんとうに胸が打ちのめされるというか、その場から逃げ出したくなってしまうんです。

もちろん人を感心させるものをもった趣味ですから「すごいね」と称賛されはしますが、わたしは「まだ何も面白いものを伝えていないのに、なにがすごいんだろう」と思うばかりで、その言葉からは寂しさしかえられません。また、高尚な趣味をもっていることを自慢している、とか、芸術がわからないやつをバカにしているだけ、と思われるのもいやで、そんな趣味を持っていることを口にするのも恐ろしいです。

先述の漫画を読んで、そういったことをつらつらと思い出して、結局「オタクって、アイデンティティの問題であって、その哲学的な難解さを、何層ものオブラートに包んで、ゆっくりとカードを切りあっている、そんなコミュニケーションと褒めあいの文化なのではないか」と思って、悲しいと同時にけっこう面白いなとおもって、こうしてつらつらと書いてみたわけです。

このことのきっかけになった、とある方の記事があります。
ほんとうはその方の記事にコメントという形で済ませようと思ったのですが、字数制限の問題で、うまく気持ちを伝えられなかったので、引用という形で記事を書かせていただきました。

わたしの気持ちを代弁してくださっている、とはっきり感じられて、つたない言葉ながら、感謝と称賛を述べようと思ったら、語りたいことが溢れすぎて、こんなに長い文章になってしまいました。

この問題では、誰かが悪いわけではなくて、ただ集団的価値観の推移のために、いく人かの犠牲が出る現象にすぎなくて、それがひょっとしたら、わたしや、円周上にいるオタクの人たちなのではないかな、とふと自分が悲しくなって思ったのです。

その犠牲は、ほかの段階では、また別の人々かもしれませんし、いまのオタク文化の中で、自己肯定に満ち満ちている方々も、どこか別のシチュエーションでは、胸のすき間に気づく人々かもしれません。

歴史上、何回も繰り返されてきた現象ですが、意外と語られないことなのかなと思ったので、興味深く思いました。

※ちなみに、文明社会の発展のために犠牲者が出る、という考え方は、先述したバルザックの『ゴリオ爺さん』の中にある一節の受け売りです。インドのお祭りで、猛スピードで走る山車のしたに、信仰心や熱狂から身を投げて命を絶つという人々に言及し、「文明はこの山車にたとえられる。横たわる敗残者を容赦なくひき殺し、決して止まらずに、誰も止めることができずに突き進んでいく」という、たしかこんな言い回しだったのですが、おかしな話ですが、ほんとうに真実をついていて、わたしの好きな言葉になりました。

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