弔いの月

『うたかたの国』 松岡正剛 工作車

あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月(p189)

全体を通して、めちゃめちゃくらった。いま、自分が欲しいと思うことばかりで、正直、一度読んだだけでは全然足りないなと思った。内容を全部体に叩き込むために、ドラえもんの秘密道具のあんきぱんが欲しいくらい…。

特に、今『源氏物語』を読んでいることもあって、そこについての書いてある部分があるのも、なんだか嬉しかった。

ー「そもそも『源氏』はその全体が「生と死と再生の物語」として読めるようになっています。これは大切な見方です。それとともに「もののけ」を含めた「もの・かたり」の大きなうねりが脈動しています。」(p155)

ただそこに存在しているものをありのまま表現することは、私にとってとても勇気のいることだ。舞台に立つためには、やはり、舞台に立つための資格のようなものが必要だと思ってしまう。それは、自分が、あくまで舞台を「学ぶ」ものの対象として捉えているからだろう。しかし、実際に舞台に立つ人間は、あくまで生物で、その生物であればあるほど、価値があるのだろう。生物であることに資格が必要かと問われれば、それは否だろう。人は皆、生きている。それだけで、十分すぎるくらい生物だし、同時に常に死と隣合わせに存在しているのである。

ー「虚構だからすばらしい ・・・式部はそうした「もの」に寄せたフィクションの力を確信していました。・・・そこで源氏は「物語というのは虚構だら素晴らしいんだ」という持論を述べてみせるのですが、これは式部が源氏を借りて自分の物語観を吐露しているところです。・・」(p156)

「虚構」という言葉を、舞台について述べる時に、寺山修司もよく使っている。「虚構」こそが現実であり、事実を表現するために必要不可欠なものなのだろう。

ー「われわれはいったい、この現実の世に何が『ない』と思っているのか。そこを問うべきである。」(p239)

ー「結局、言葉とは『そこになくてもそれが捕らえられること』ができるような間主観的な極意なのである。あるいそのようにそこに暗示された何かを見習うべきモデルなのである。」(p240)

音は消えていく。その瞬間だけで、2度と同じ音を聞くことはできない。歌の練習をしていると、ああ、あの時の方がよかったなと思うことがあっても、それに近いことはできても、全く同じことはできない。なぜなら、声を発する私の身体は、1秒たりとも休まずに、ずーっと死に続けているからである。

最近、シャンソンの選曲でずっと悩んでいた。先輩に質問をしても、自分の好きな曲を歌ったらいいのよ、と言われる。だが、その好きがよく分からなくなっていた。どうして、自分が、その曲を好きなのか、言葉にできなければ、自分が歌うことの必然性がなくちゃ、歌っちゃいけないのかもしれない。だから、『愛の讃歌』を大好きだということにも、自信が無くなっていた。「どうして、『愛の讃歌』が好きなの?」と聞かれるからだ。

ー「だってその声はどの時代からやってきたものかなんて誰にもわからないですから。」

私の声や、私という存在について、私が知っていることなんて、本当にわずかなのかもしれない。正直最近は、「わからない」に取り憑かれて、飲み込まれて、何も手につかなくなっていた。そんな自分がもっと「わからない」になり、更に動かなくなっていた。優先順位がつけられなくて、何もしないまま1日が終わってしまう。だが、自分が自分でコントロールできない存在なんだと自覚すれば、それも少し変わってくるのかもしれない。動けない時は、動けない自分の声を聞く。そうやって、日々死にまくっている自分の身体を弔いながら、その弔いを、今を照らす月のように感じられたら、少し軽くなる気がする。



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