『美術手帖 10月号 アートの価値の解剖学』

痒いなぁと感じた。

アーティストと同じだけ、批評家の数が必要で、批評家が職業として成り立つための、公的な保証が足りていない。アートとは、国が守るべきもので、日本は特にその力が足りていない。構造を変えなくてはいけない。分かる、分かるよ、つまり、とにかく「お金がない」ということ。。。

高校時代も、今日本の舞台で活躍している先生方が、しきりに「お金が無い」と言っていたのを覚えている。

ううん、でもなんだろう、それって、凄く窮屈だな。

私自身は、日本の中で非常に限られた公立の芸術高校を卒業し、今は、国立の芸術大学で学んでいる。

今、自分が恵まれた環境で学び、自分が望むだけ自由に思考する時間が与えられてるからこそ、そういったことが言えるのかもしれないけれど…。

そういう中にいても尚、窮屈さを感じる。そういう中だからこそ、なのかもしれない。ずっと、誰かのせいにしている感覚。自分達は守られて当たり前なのだと言うことを、簡単に言ってしまう。

誰かのせい、であるのも確かで、ただ、それは同時に自分のせいでもあるのだと私は思う。

今自分がいる場所の居心地が悪いのは、つまり、その間の部分、関係性の問題で、同じ場所でばちばちとしていても、きっと問題は解決しない。

そこから一歩離れて、具体的な関係性を見つめて、その関係性が乗っかっている舞台そのものを底上げする。それができない限り、永遠に、違いに誰かのせいにし続けて、とても悪い空気の中で、生きることになっていってしまう。

10年放置していた家に、空気清浄機を一個置いたところで、安心して寝られる環境にはならない。そんな感じ。

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「アートの価値を支えるシステムに、今何が起こっているのか」という題で書かれた座談会の中の記事での、藪前さんの「現在性を変える言葉」という表現が印象的だった。

今あることと向き合うためには、今あることだけを見るだけじゃ不可能で、今あることが一体どこに位置しているのかを理解できるような視点を、自分自身に持つことが、第一歩なのだろうと思う。


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