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自分の評価基準という概念においておもいいたった私の一時的解釈

いろいろな心理状態になる。その都度求める作品や音楽なんかがあって。なんとも言い知れない心持の折には、今一度あの学生の頃何度も見返したはずの冷たい白黒映画を反復する必要がある。なんてことがあったかと思えば、改めて「精神分析とは」「哲学においては」「行動心理学でいうと」などと自分の胴回り15cmくらいの距離感の文学や体系だった知性をクッキーモンスターごとくむさぼってムシャムシャ食い散らかす必要にかられることも決して少ないものではない。
部屋の(脳の)片隅に一片でも口元からもれた歯形のついた皿や洋菓子のカケラが転がってさえすればいい。みたいな雑な摂取なので超・超・超合法的麻薬の一種であることは重々承知ながら、悪酔いするような音楽を浴びることが儘ならないような【新しい生活様式】を土台にしてしまっている社会である以上コチラを選択せざるを得ない。

健康的よね。とても。不健康な本読むって。

『自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義』を読みはじめました

とりあえず、まだめちゃくちゃ序盤で本編にすらさっき入りましたというカナリ初心者でして、解釈もなんもないやろ、というところなのですが。昨日『自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義』を読みはじめました。すんごいウソくさいタイトルですよね。こういう類の本山ほど出てる。棚に並んでるとアホちゃうかと思ってしまう偏見の持ち主です。わたし。

で、まさにそんなような出だしでした。というか今みたら49ページ目でした。295ページあるんで、序盤も甚だしかったです。笑

本編は「パーソナル心理学」という心理学を扱ったものです。ユングやなんやらは出てきません。[パーソナル・コンストラクト]と命名されている「その人個人をつくり形作っている考え方。構成概念。いわば眼鏡のようなもの」を軸に話がはじまります。

自分が他人と対峙するときに「あぁ。そういうタイプの人間ね」と自分なりに分析し予測を付加し大きくは判断しながらします。それが[パーソナル・コンストラクト]です。そこからどうコミュニケーションをとっていくのか、はたまたとらないのかを判断するのですが、その「それぞれの評価基準」は、じつはそのまま「自分をどう解釈しているかにつながっている」と本の中にいきなり記されていました。

は?です。何をいうてはるんかしら、と眉間に皺よせながら読み進めました。どーせ眠れなかったので、とことん話きいたろやないかいな!です。
(下戸じゃなかったらココでウィスキーを燻らしたいところ・・・)

虚ろなメモ書き

うつろな状態で書いたメモには箇条書きが残されていました。

人は「他者」のふるまいを「パーソナリティ」で
「自ら」のふるまいを「状況」で捉える傾向がある
評価基準の多さが世界を解釈する自由度につながる。
評価基準が少ないことはそのまま解釈の自由度を低くすることになる。
敵意とは、自分を否定されたときに起きる反応
人が脅威を感じるのは「自分の核となる評価基準」に変化を迫られたとき

個人的に私は人を分析することが好きです。と、いうか癖のようです。
もともと物覚えが悪いので様々な付加情報を与えて記憶を補足するためにほとんど無意識でやっているようです。ここでいうところの「他者を評価する」行為がおそらく人より多いように考えます。と、いうことは逆を返せば人よりも「自分の核となる評価基準」を通ることが多いのかもしれないと考えました。

こうなると「自分の核となる評価基準」を詳しく知りたくなるところなのですが、その前に上で提示されている「敵意」と「脅威」について。

「敵意」とは「自分を否定されたときに起こる反応」と表現されています。
「脅威」とは「自分の核となる評価基準に変化を迫られたとき」です。

いずれも「自分の核となる評価基準」によって作用する抗えない反応と理解しました。自らが無意識に保持する「核となる評価基準」の自由度が高かったり多様性を含んだものであれば、必然的にそれほど強い反応が現れることも避けられるということもイメージできました。

それほどの強い反応をしている自分を顧みる

そこでもうかれこれ4年近く通っていることになる心療内科医に通うことになったキッカケをここで思い返すにいたります。

私は、いつものことながら懸命に働いておりました。派遣社員でしたがチームへの在籍歴がわりと長かったので、チームの方々からは信頼厚く、契約社員の試験を10月受ける前提の仕事の任され方をしていました。周りからも「すぐにでも社員になってほしい!」上司からは「社員以上の働きができる人間を評価できないのが口惜しい」と言葉かけていただいていました。

1人目の長男はナイーブな性質で、気管支も多少弱かったのでなかなか気が抜けない中ではありながらなんやかんやと協力しあう体制もとれはじめた頃でした。

そんな折、突然家のことが出来なくなりました。
お迎えにいくのがツライ。朝起きてお弁当が作れない。何を着ればいいかわからない。電車の乗り換え方を忘れる。時間通りにいったはずなのに始業の5分後についている。長男の登園しぶりの激化。お迎え後から寝かしつけまでの過密タスク(洗濯物、料理、登園準備、子供がお風呂に入らない。寝付かない。。。)完全に機能停止してしまった私。
その原因は、家庭内のタスクの過密さが原因だったのでしょうか?

これ、じつは違うんです。これらの大変さはむしろこの1年前のほうが酷く、遠方の職場に通っていた頃に比べて、通勤時間は半分になり理解のある職場メンバーとともに「お互い様!」など言いながらフォローしあい仕事としてはとても充実していました。

なにが「自分の核となる評価基準」なのか

ここで本の内容に戻ります。(ややこしい?だいじょうぶ?)
本書には、ジェラルドという学生が例にでてきます。
彼は7つの評価基準を出す授業内でおおむね1つ「軍隊にいるorいない」を評価基準にあげていたそうです。そして彼はそれに値する服装と姿勢で常に授業を先頭で聴講していました。その後、彼は学校を中退します。なんらかの理由で軍隊の修正プログラムを辞めさせられたことがキッカケとなり精神の安定性を欠き、精神科への入院をよぎなくされるまで追い詰められてしまったとのことでした。

つまり彼は「軍隊である」という強い評価基準を損なったために、他社や世界の解釈をどう取扱ってよいのか分からなくなり混乱してしまったのです。

と、そこで自分に立ち返り思い当たる部分を見つけました。

おそらく本の中身でいう評価基準はポジティブなものが前提に書かれているのですが、私の場合おそらく主軸でないにしろ、そう言って過言ないほどの位置に「わたしは不出来である」という強めの評価軸があるのでは、と考えました。

「わたしは不出来である」という評価軸

例えば、貴方の職場に派遣社員が1人います。一緒に働いてみたところ期待以上の働きをしてくれます。気遣いがあり、1度話たことは忘れず、ミスは繰り返すことなく、時間に多少ルーズな面はあるもの、重要な場面での事前準備やもしものときの備えは指示するよりも前に質問がはいります。読み取る能力が高く、指示に対していくつかのパターンを考えて回答を用意しておいてくれることも稀ではありません。

彼女を契約社員、さらには正社員の道へ進んでもらいたいと共に働くメンバーは自然とそう考えるようになり本人に打診してみました。

彼女はひどく謙遜し、そのあと「認めてもらえてとても嬉しいです。自信はないですがチャレンジしてみたいです!」と答えてくれました。
その後、契約社員の採用試験を受験してもらうにあたりそれなりの業務責任が発生する仕事をすこしずつ渡していきました。内容は、これまでやっていたものに+αする程度の仕事で業務量も2割増えたか否か程度でした。

そして、ある日彼女は電車にのったまま記憶を失い、まったく逆方向の終点駅から慌てて電話をかけてきました。「ごめんなさい。今気づいて。寝てたわけじゃなかったのでよくわからないんですけど、逆方向にきてしまっていて。今からむかいます。」

言うまでもなくこの非正規雇用の女性は私です。

わたしにとっての「脅威」とは「期待・信頼」

自己評価だとか自己肯定感なんて溢れ出してとにかく面倒な世の中なのですが、わたしは本当に自分のことを「不出来で愚かな何の役にも立たない価値のない人間」だと常日頃考えています。そして、どうやらそれを主軸において毎日を生きては、ものを見たり、他人と接触したり、社会とコミュニケーションをとろうとしているらしいのです。

ここでいうところの「自分の核となる評価基準」ですね。

そこで他者から「優秀だ。」「素晴らしい任せたい。」「期待している。信頼できる。」という評価基準とは真逆のことを言葉だけでなくポジションやギャラとして提示されたとき、つまり実際的に加点評価されたとき、私の核となっている「自分は不出来な人間である」という評価基準が大きく揺らぎます。そして私は軍隊を誇りにしていたジェラルド同様、その高評価である自分とのバランスを欠き、何を基準に世界を判断・イメージ・思考すればいいのかわからず、知らない間に沼に片足を突っ込むことになっていました。

おそらく本書は、失うことや損なうことを前提として書かれたものなのですが、私の場合そもそもの自己評価がゾンザイなもののせいで、与えられることに脅威や不安感を抱くようなのです。

さらに矛盾している想いが「社会の役に立ちたい」「誰かに必要とされたい」「わたしの作るものを愛してくれる人ともっと繋がりたい」「認められたい」なので、より厄介です。

どちらに転んでも苦しい状態ということになります。
社会的成功を夢見て努力し、手に入りそうになると恐怖を感じ投げ出してしまう。自分を信頼できないので「こんなやつに任せないでください!」と怒り出しそうな状況に追い込まれる。でもやっぱり認めてほしい。。

矛盾を孕んだまま藻掻いて、おぼれたいのか泳ぎたいのか、、、
ゆくゆくは体力が尽きて沈んでいくだけなのでしょうか。。?


もう少しこの本読み進めたいと思います。

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