『旅立ち 外伝』

 私は就職に失敗し、途方に暮れていた。何十社も受けては落ち、その度に自分を否定されたような気がした。周りの友達が次々に決まっていくのに、私だけ決まっていなかった。

 親に相談すると、「人生長い。焦って変な会社に就職するよりも、好きな事でもして自分を見つめ直してはどうか」と言われた。

 自分を見つめ直すには旅がいい。それも海外に行ってみよう。そう思ってタイに渡航した。

 タイは仏教国だけあって、お坊さんがあちこちにいた。皆柔和な表情をしていた。中には尼さんもいた。髪を剃っている女性は初めて見た。たどたどしい英語で話しかけても、嫌な顔をせずに答えてくれた。

 そこで出会った穂積さんは、こともあろうに坊主頭だった。始めは尼さんなのかと思ったがそうでもない。出国前に長かった髪を剃ったと言う。彼女がこうなった理由を聞き、とても感銘を受けた。社会を経験してきた穂積さんの話はとても勉強になった。

 私も髪を剃ってみようか。穂積さんみたいにリセットすれば、新しい何かが見えてくるかもしれない。だがショートにもしたことがないこの長い髪を彼女みたいに剃るなんて、私に出来るだろうか。

 でもいい機会だ。こんな大胆なことを出来るのは今しかない。それに髪はどうせ伸びてくる。剃った髪が伸びる頃には、何かが変わっているかもしれない。髪を剃るなんてすごく怖いけど…やってみようかな…。

 それに旅をしていれば、髪が長いことで危険な目に遭うリスクはある。穂積さんみたいに剃ってしまえば、まさか襲われることはないだろう。

 人前で髪を剃るところを見られるのは恥ずかしいし、何より床屋に入ったことすらない。どうせなら穂積さんにやってもらいたかった。もちろんバリカンなんて持っていなかったので、床屋さんで交渉することにした。

「あの、すいません、今から髪を坊主にしたいので、道具を貸してもらえませんか?」
「坊主にする?あんたが?なんでここでやらないの?」
「人に見られるのが恥ずかしいですし、友達にやってもらいたいので…。」
「商売道具だからタダでは貸せないよ。お金どれだけ持っているの?」
「これだけです…。」勢いで来てしまったため、手持ちは少なかった。それを見て渋い顔をする店主。だが何かを閃いた顔をした。
「お嬢さん、バックパッカーだよね。」
「はい。」
「じゃあお金を持っていないのもしょうがない。どうだろう、切った髪をくれるなら、タダで貸してやってもいいが。」
「髪を…ですか…?」
「ああ。長いほどいい。そのポニーテールごといただければ、タダにしてあげるよ。こだけ長ければ高く売れるからね。」
 
 何ですって?ポニーテールを?すごく嫌だったが、タダと聞いて断る選択肢はない。
「分かりました。このポニーテールごと差し上げますので、貸して下さい。」
「もう一つ条件がある。ここでそのポニーテールを切らせてもらうよ。」
「ええっ!?」
「嫌ならいいんだよ。貸さないだけだから。」

 てっきり穂積さんに切ってもらって、その髪を渡せばいいと思っていた。まさかこの場で切られるとは…でも断りようがない。
「分かりました。バッサリ切って下さい。」
「じゃあ遠慮なくやっちゃうよ。」

 すぐに散髪椅子に座らされ、ケープをかけられる。おじさんはポニーテールを掴むと、躊躇いなく結び目から切り始めた。ジョキジョキと音がする。こんなことでお気に入りのポニーテールを失うとは思わなかった。泣きたくなったがグッと堪えた。これから坊主にするんだから、この程度で泣くわけにはいかない。

 やがてポニーテールが切られた。頭が軽い。髪束を手に「うん、艶があっていい。これは高く売れるぞ」と店主。続けて「ここで剃って行くかい?」なんて言ってきた。冗談じゃない。それだけは許せない。
「それはお断りします。約束通り道具を貸して下さい!」

 店主は棚から道具一式を持ってきた。ハサミ、ケープ、剃刀、シェービングクリーム、そして見た事のない器具…。
「あの、これって何ですか?」
「これもバリカンさ。手バリカンと言ってね。初めて見るのかい?」
「ええ。どうやって使うのですか?」
「ちょっと待っていて。」

 そして彼は自分の息子を呼んだ。何やら話している。
「今からこいつを坊主にするから、見ているといい。」

 伸びた坊主頭の彼が椅子に座ると、その手バリカンを頭に入れた。カチカチという音とともに、髪が少しずつ刈られていく。時間をかけて、少年は坊主頭になった。さっきまで黒かったのに、青々とした地肌しかなかった。

 これが丸坊主になるということなんだ。私もああなるのか…ちょっと怖くなった。

「こうやって使うんだよ。分かっただろう?」
「はい。ありがとうございました。ではお借りしますね。」
 

 穂積さんにの所に戻ると、かなり驚かれた。無理もない。ついさっきまであったポニーテールがなくなり、ザンバラ髪になっていたのだから。

 宿に戻り、始めは穂積さんの髪を刈らせてもらうことになった。さっき床屋さんで見たように手バリカンを動かしてみると、あっさりと髪を刈ることが出来た。彼女の伸びてきた髪がなくなり、地肌が現れた。

 続けて手バリカンを動かしていく。少しずつ黒髪がなくなり坊主になっていく。白い襟足を見た時は、その艶めかしさが色っぽく、ちょっと変な気分になった。

 やがて少年のような坊主頭が出来上がり、次にT字剃刀を手にする。傷つけてしまわないよう慎重に剃って行く。腋毛を剃るのと同じ要領だから何とか出来た。

 穂積さんは尼さんのようなスキンヘッドになった。私もすぐにこうなるのか…たまらず身震いしていた。

 そしていよいよ私の番になった。まずは乱れた髪をハサミで整えてショートにしてくれた。

 穂積さんが手バリカンを持ち、私に尋ねる。
「紗代ちゃん、一応ショートカットにしたけど、ここで止めておく?」
「いえ、坊主にして下さい!」
「分かったわ。じゃあバリカン入れていくわね。」
「はい…バッサリと…お願いします…。」

 やっぱり止めておこうか。正直、ここまできて迷いが生じていた。けれどそれでは何も変わらない。ただバッサリ切ってショートにしただけで終わってしまう。

 今しがた穂積さんを坊主にしたから、自分の頭がどうされるのか分かる。前髪に手バリカンが入ってしまえば、坊主になるしかない。すごく怖かった。坊主になったら伸びるまでどれだけかかるのだろうか。

 だがこれは、本来の私を取り戻すためには必要な儀式だ。自信たっぷりに過ごしてきた22年間が、就活によって壊された。一度髪をリセットすることで、新たな自分になれるかもしれない。

 遂に手バリカンが額に入った。カシャカシャと軽快な音を立てて、私の前髪がザックリ刈られた。鏡に映る自分の姿を見て、思わず涙が零れた。覚悟していたはずなのにどうして…。穂積さんにも心配されたが、ここまで来て止めるわけにはいかない。大人しく坊主になろう。生まれ変わろう!

 髪が少しずつ刈られていく。さっき穂積さんにしたように、今度は自分が坊主になっていく。涙を堪えて、変わっていく自分を見つめていた。

 手バリカンの冷たい感触、髪を根こそぎ刈り取られる心の痛み。坊主にされつつあるのを嫌というほど感じた。大切にしてきた髪を、自分の意思で坊主にしている。本当にこれで良かったのだろうか…。

 されど、今さら悔やんだところで、刈り取られた髪は元には戻らない。もはや坊主になるしかないのだ。その現実を突きつけられ、自然と涙が零れてきた。

 まさか異国の地で、ショートにもしたことがない髪を坊主にするとは思わなかった。それも自分の意思でやるなんて、以前の私だったら到底考えられない。

 穂積さんが手バリカンをそっと置く。全ての髪を刈られ、私も少年のような坊主頭になった。戸惑い、ショック、後悔…だが、一つ自分の殻を破れたような気がした-。

 シェービングクリームが塗られる。剃刀の感触が気持ちいい。ゾリゾリとたくさんの髪の毛が剃られている気がする。さっきまではバリカンで刈られたショックが大きかったが、今は清々しい気持ちになっている。

 私もスキンヘッドになった。床に落ちた大量の髪。こんなに髪があったんだ…。

 鏡を見ると、尼さんみたいだった。頭を触るとペタペタした。今度は涙ではなく笑みが零れてきた。新しい自分に、少しは成れたかな…。

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