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ISMの着こなし

民主主義は
全体性を鑑みて個人に働きかける
または総合的に問題を汲み取って個人に問うISM
問題点をつまびらかにすることはできたとしても
国民一人ひとりに主体性がなければ
問題が個人に到達した時点で
停滞してしまう
日本民族的にはどこか
につかわないISMなのかもしれない
この国は敗戦後そのISMを
外圧によって猛スピードで取り入れてきた
けれど未だうまく取りこめていないのが実情だ
畳をひっくり返してカーペットを敷けばいい
そんな決着が幕引きにはならない
一家団らんの居間が消えて
個人の部屋を持つようになって
扉は常に〆られたままで
長い年月が過ぎた
あまり知られていないが
本家の米国では
子供はたとえ自分の部屋を持っていても
一定年齢に達するまでは
けして部屋の扉を締めてはならない
親の監視下になければならない
鶴の恩返しとは逆説的な
親と子の暗黙了解(ルール)が存在している
それを守ることで
お互いの関係(絆)を維持している
ところが型をまねるだけに長けている日本民族は
その様式の本質にまでは目が届かなかった
親と子の努力と工夫なくば
良好な関係を維持することは難しくなってしまった
余談だが
日本の俳優が特定のあるハリウッド俳優に憧れるがあまり
その演技をまねて演じる姿を目にすることがある
そこでも本質に目が届かない見落としが行われている
見えるものを観るのではなく
見えないものを見つめていく自力なくば
主体の欠けた「型どり」が得意な
俳優で終わってしまうのだ
話を戻す
幸か不幸か、戦後、戦勝国から
好む好まないにかかわらず引き継いだISM
ここで発生した初歩的な取りこぼしは
楽しい事のほとんどを相手国から学んだが
家族の形については何も学ばなかった
家は建造物としての様式も変わり
間取りも大きく変容した
しかしその理由については
理解していなかった
まさか70年以上も前に
ISMと西洋文化を身近に取り入れ
そこに家族で住まうということが
親子間の距離まで変えてしまうとは
思いも至らなかったのだろう
(ぼく個人としては様式を取り入れた事実よりも
取り入れるスピードに問題があったと思っている)
継承したISMによって
70年以上前の取りこぼしは
未だに地面に転がったまま
地中に溶けて浸透し地盤を緩めて
軋轢のような歪を生み
歯止めがきかないほど決定的な
分断分裂孤立となって顕現している
道の上には
「分かり合えないという大前提」が
常識的に転がっているのだ
だから無言になる
だから目を合わせない
だから頼まない
自分ではない誰かになることで
その場をやり過ごそうとする
マニュアルを使って個人感情を消し
自分をここではない蚊帳の外へおいやり
徹頭徹尾、保守を試みる
僕の目の前にいる貴方は
いったい何者で
本当の貴方はいま何処にいて
いったい何を考えているのか
そう言いたくなるのだ
ISMを大切にするのなら
一人ひとりの生き方が
今後大きな意味を持つ
その時
損と得を最前線に
立たせてはいけない
他者の合唱に
迷わされてはいけない


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