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第三次世界核戦争は新作ゲームの序章?

「ゲームオバー」の恐怖

いま世界は、このリアルゲーム一色で語られ、東西パワーバランス一触即発の危機に見舞われている。

それをまったくの絵空ごとではなく、実際にあった戦争話を再現して、それがどんな道筋を辿って深入りするか、それをシミレーションすることもできる。

それが1905年の「日露戦争」だっだ。

1905年 明治三十八年の5月27日、旧日本海軍と露・バルチック艦隊が激突する日本海海戦が勃発した戦争をいう。

こんな比喩で語るには不謹慎だが、「日露戦争」という語り部話しは、今となっては「御伽噺」のカテゴリーに組み込まれのではないか、とすら思えてならない。

日露戦争
第二太平洋艦隊は北海ではイギリスの漁船団を日本艦隊の待ち伏せと誤認して攻撃するというドッガーバンク事件を起こし、イギリスと戦争寸前の状態となった。

スエズ運河は日本の同盟国であるイギリス(日英同盟)が支配していたこと、大型艦の一部はスエズ運河の通航ができないこと、イギリス側の国への寄航ができないこと、喜望峰ルートの長距離移動では石炭を多く積む必要があること、などの理由から、第二太平洋艦隊の大部分はアフリカ大陸南端の喜望峰を回り、一部の部隊のみスエズ運河経由に分かれ、両部隊はマダガスカル島のノシベ泊地で合流した。

航路上の中立国の港での補給や修理は困難であり、半年間の航海は困難を極め、航海中に多数の乗組員が死亡した。
しかし、平均5 - 7ノットという低速ながらも、本来遠洋航海向けでない駆逐艦など小艦艇を引き連れての航海は「奇跡の航海」として、その後も高く評価されている。

第二・第三太平洋艦隊は翌1905年5月9日、ロシアの同盟国フランスの植民地であるフランス領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾で合流しウラジオストクを目指したが、5月27日、対馬沖で東郷平八郎率いる日本の連合艦隊と遭遇、海戦を繰り広げた(→日本海海戦)。
2日間にわたる海戦の結果、第二・第三太平洋艦隊のうち、ウラジオストックになんとか逃げ込めた駆逐艦以上の艦艇はたった3隻のみ。

これに対し日本側の損害は駆逐艦1大破、水雷艇数隻沈没で、主力艦は中破すらほとんど無いという、ほぼ無傷といっていい軽損であった。日本海海戦は、おそらく世界海戦史上最も完全に近い勝敗であり、各国の軍事研究で広く注目を集める海戦でもある。

七年戦争ではプロイセン軍とポンメルンや東プロイセンの沖で戦い、第一次ロシア・スウェーデン戦争ではスウェーデン軍と戦ったが、スヴェンスクスンドの海戦で大敗を喫した。
その他には露土戦争のために何度も地中海へ出撃したほか、クリミア戦争の際には連合軍のフィンランド湾侵入を防ぐために戦った。この際にバルト海艦隊は機雷を活用して防戦に成功した。これを開発したボリス・ヤコビ(モーリッツ・フォン・ヤコビ)をはじめ、バルト海艦隊には、無線通信を研究したアレクサンドル・ポポフ、水雷艇運用の先駆者であるステパン・マカロフ、航空機を研究したアレクサンドル・モジャイスキーなど、海戦のあり方を変えた数多くの科学者・発明家が在籍した。

黒海沿岸まで領土を広げたロシアは黒海艦隊を創設した。クリミア戦争の結果一度保有を禁じられた後に再保有が認められたが、ロシア艦艇が黒海を出入りすることが認められなくなりバルト海艦隊とは艦艇の入れ替えができなくなった。
サンクトペテルブルクにある、聖ニコライの海の聖堂。ロシア海軍の聖堂であり、ソ連時代にも閉鎖されることがなかった。外側には海戦で没したロシア軍将兵を記念する銘板が多数ある。

クリミア戦争の時点では蒸気船を持たなかったバルト海艦隊は、1860年代に入ると、南北戦争で海軍を強化したアメリカ合衆国から技術を導入してモニター艦を配備した。
また造船廠の建設、近代的な軍艦の建造、バルト海沿岸の砲台建設などを推進した。また極東のカムチャツカ半島や沿海州には独自の小艦隊(シベリア小艦隊)があったが、バルト海艦隊からも艦船を抽出して極東に回航させて分艦隊を置き、後の太平洋艦隊の母体となった。

アレクサンドル3世の時期、セルゲイ・ヴィッテらは北極海に面したムルマンスクが不凍港であるため、内海のバルト海でなく大西洋に面したムルマンスクの方に大洋艦隊の基地を建設する構想を提案した。
しかし、1894年にアレクサンドル3世が没し、ニコライ2世が皇帝に即位すると、ムルマンスク開発案は却下された。代わりにバルト海艦隊の新たな母港・要塞をフィンランド湾外のリバウ(現・ラトビアのリエパーヤ)に建設することになった。リバウの要塞建設は結局日露戦争がはじまる時点になっても完成しなかった。

一方、満洲へ進出したロシアは旅順を租借して母港・要塞を建設し、太平洋艦隊として分艦隊をさらに増強していった。同じく満洲を狙う日本が海軍拡張を行うと(六六艦隊計画)、それに対抗するためバルト海艦隊の主力艦はほとんど太平洋艦隊に配備され、バルト海に残っているのは新造艦と老朽艦ばかりという状況となった。

1904年、ロシア帝国と日本との軋轢が高まり、2月8日、旅順港に停泊中のロシア軍艦に日本の水雷艇が奇襲攻撃(宣戦布告は10日、但し最後通牒は6日に手交されていた)し、日露戦争が始まった。太平洋艦隊と日本海軍はほぼ同等の戦力で、ロシア海軍はバルト海所在の艦艇をも加えることで戦力的に上回ることを図り、第二太平洋艦隊を編成して極東方面に増派することを5月に発表した。
司令長官には侍従武官であったロジェストヴェンスキー少将(航海中に中将に昇進)が任命され、主力たるボロジノ級戦艦の完成を待ち10月に出発した。 ウイキペディア部分引用


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戦艦ペレスヴェート級 バルチック艦隊旗艦を務めた新鋭戦艦 : 

バルチック艦隊旗艦



バルチック艦隊 明治三十八年(1905年)の5月27日、旧日本海軍と露・バルチック艦隊が激突する日本海海戦が勃発した。
日露戦争における日本の勝利を実質的に決定付けた海での戦い。

http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52176901.html


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音楽とともに画面に表示される「GAME OVER」の8文字。ゲーマーのみなさまなら何度となく目にしてきた言葉でしょう。「ゲームオーバー」という言葉は、日本語では「試合終了」や「ゲームの終了」を意味するほか、比喩的に「敗北」や「一巻の終わり」といったネガティブな意味合いでも用いられます。実はこの言葉、外来語なのか和製英語なのか、辞書によってその扱いが割れていることをご存じでしょうか。「game over」を外来語とし、前述の日本語と同じような意味合いで英語圏でも使われているとする辞書もあれば、「game」と「over」を単純に組み合わせたものとして、あるいは「game is over」がなまったものとして、単純に「試合終了」を意味する和製英語とする辞書もあります。
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200206b
(編集部)文/タイニーP


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