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通念としての「唯物論」

9世紀「カール・マルクス」の唱えた歴史観

唯物論とは、 観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方。 対義語は観念論(イデアリズム、英: Idealism)で、精神のほうが根源的で、物質は精神の働きから派生したとみる。

唯物史観は、「唯物論的歴史観」の略であり、史的唯物論(ドイツ語: Historischer Materialismus)と同義である。

19世紀にカール・マルクスの唱えた歴史観である。その内容は、人間社会にも自然と同様に客観的な法則が存在しており、無階級社会から階級社会へ、階級社会から無階級社会へと、生産力の発展に照応して生産関係が移行していくとする歴史発展観である。

ヘーゲル哲学の弁証法(矛盾から変化が起こる)を継承しており、人間社会の歴史に適用された唯物弁証法(弁証法的唯物論)とも言える(しかし唯物史観は弁証法的唯物論をそのまま適用したものではない、と述べるマルクス主義者もいる)。またフォイエルバッハやフランス唯物論者たちから唯物論を継承している。

19世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは、唯心論も唯物論も共に事態の一面を見ているに過ぎないとし、感覚も類的性質を持ち生理学のみでは解けないとした。その後、ヘーゲル学派は宗教にたいする見方をめぐって分裂し、フォイエルバッハは、ヘーゲルを批判して、神性とは人類の本質の反照であるとする唯物論を展開した。
フォイエルバッハの現実的人間主義の立場を受け継いだマルクスとエンゲルスは、従来の人間機械論的あるいは生理学的な唯物論はその時代に制約されたものであったとして、ヘーゲルの弁証法を継承した唯物論を展開した。これを弁証法的唯物論という。

19世紀は後に「科学の世紀」と呼ばれるほどの自然科学の発達した時代であり、K・モレスコット(1871~95)、J・フォークト(1822-93)、ルートヴィヒ・ビューヒナーらは、自然科学的な知のみを体系化することによって哲学は不要になると主張するようになった。他方、弁証法的唯物論の立場をとったソビエト科学アカデミーは、モレスコットらの生理学的な唯物論は浅薄で俗流の唯物論であると結論づけた。

日本では、西欧思想の紹介・導入時期には、「物質学」「実質学」と訳されていた。19世紀後半、精神主義的思想の確立を図る者たちによって “唯物論” という訳語が定着される。
社会主義的・共産主義的思想に随伴したものではない本格的論考は、20世紀、第1次世界大戦後、私費留学生たちが帰国するようになってのち、現れるようになった。1932年に結成された唯物論研究会において、戸坂潤らは物質を基底的とする唯物論を唱えた。

20世紀を通じて心の哲学で最大の影響力をもってきた学説は唯物論だった、とサールは著書で概観した。
唯物論では「心的状態があるとしても、それはある意味でなんらかの物理的な状態に還元できるはずだ。それ以外にない」と考える。
この唯物論は哲学・心理学・認知科学などの専門領域の専門家らの間では時代の宗教と言ってもいい状態である、とジョン・サールは解説した。唯物論者はなかば宗教的とも言える信仰心によって自分の正しさを信じきっているのだが、実はこれまでけっして満足ゆく説明や、他の哲学者、そして唯物論者自身に受け入れられるような説明を定式化できないでいる、その点で興味深い、とサールは指摘する。
というのは、世にとって本質的な心的な性質、つまり哲学的な立場がどうであれ、誰もがその存在を知っている《心》的な性質を扱うことを放棄してしまっている、だがその現実に絶えず直面してしまっている、とサールは指摘した。

20世紀に学者の世界でまず影響力を持ったのは行動主義と呼ばれる唯物論であり、それは当初「心とは身体の行動にすぎない」と主張された。つまり、心的なものを構成する身体行動の他には何も存在しない、と主張した。これには「方法論的行動主義」と「論理的行動主義」の2種類がある、とサールは指摘した。

方法論的行動主義は心理学上の運動で、「心理学は客観的に観察できる行動だけを研究すべきだ」と主張した。この行動主義者は、入力される刺激と出力される反応(=行動)の相互関係を示す“法則”を発見することを期待していた。
こうした方法論的行動主義者として著名な人物としてはジョン・B・ワトソンやB・F・スキナーがいる。(彼ら自身の主張はともかくとして)彼らのような主義を標準的な教科書では「方法論的行動主義」としているという。
この主義は数十年にわたって大きな影響力を及ぼした。だが20世紀なかばには行動主義は、それ自体が方法論的な困難により行き詰まり、さらに痛烈な批判も浴び、全般的に弱体化し、結局は破棄されるに至った。
チョムスキーなどからも痛烈に批判されたのであり、「心理学を研究するために行動を研究する」という発想は、「物理学を研究するために計測を研究する」というのと同じくらいばかげている、との指摘であり、証拠と研究対象自体を混同するのは間違っている、という批判である。
心理学の研究対象は人の《心》であって、行動は証拠になるにしても、それ自体は心そのものではない、という指摘である。こうしてこの主義は破棄された。

voice.唯物論



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