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いまの、ネットは「マッチポンプ」で出来上がっている.2

三島由紀夫 切腹


総監を訪問し拘束

舞台となった市ヶ谷駐屯地。事件当時の看板は墨文字の書体で「陸上自衛隊市ヶ谷駐とん地」となっていた。

渦中となった東部方面総監部は1994年に朝霞へ移駐している。1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区市谷本村町1番地(現・市谷本村町5-1)の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門(四谷門)を通過し、東部方面総監部二階の総監室正面玄関に到着。

出迎えの沢本泰治3等陸佐に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇1等陸佐(50歳)に案内され総監室に通された。

この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等陸曹が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった。

応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、総監・益田兼利陸将(57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。今日は例会があるので正装で参りました」と説明した。


文春オンライン


ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”に関してのものになった。

総監が、「本物ですか」「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。

鑑定書をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた。三島は刀を抜いて見せ、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。
しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づいて日本手拭を渡した。
手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。
刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返して元の席に戻った。

この時、11時5分頃であった。三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら鳴りを「パチン」と響かせて刀をに納めた。

それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した。

古賀から別の日本手拭を渡された小賀が総監にさるぐつわを噛ませ、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた。

総監は、レンジャー訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた。

その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所(全て観音開きドア)に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。

割腹自決

12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。そして益田総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。

三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、森田に、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。

割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。
左後方に立った介錯人の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした。総監は、「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。最後に小賀が、三島の握っていた短刀を使い首の皮を胴体から切り離した。その間小川は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた。
続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。その後、小賀、小川、古賀の3人は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両人の首を並べた。総監が「君たち、おまいりしたらどうか」「自首したらどうか」と声をかけた。

3人は総監の足のロープを外し、「三島先生の命令で、あなたを自衛官に引き渡すまで護衛します」と言った。総監が、「私はあばれない。手を縛ったまま人さまの前に出すのか」と言うと、3人は素直に総監の拘束を全て解いた。
三島と森田の首の前で合掌し、黙って涙をこぼす3人を見た総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「自分にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。

12時20分過ぎ、総監室正面入口から小川と古賀が総監を両脇から支え、小賀が日本刀・関孫六を持って廊下に出て来た。3人は総監を吉松1佐に引き渡し、日本刀も預け、その場で牛込警察署員に現行犯逮捕された。
警察の温情からか3人に手錠はかけられなかった。群がる報道陣の待ち受ける正面玄関からパトカーで連行されて行く時、何人かの自衛官が3人の頭を殴ったため、警察官が「ばかやろう、何をするか」と一喝して制した。

12時23分、総監室内に入った署長が2名の死亡を確認した。「君は三島由紀夫と親しいのだろ?すぐ行って説得してやめさせろ」と土田國保警備部長から指示を受けて、警務部参事官兼人事第一課長・佐々淳行が警視庁から現場に駆けつけたが、三島の自決までに間に合わなかった。
佐々は、遺体と対面しようと総監室に入った時の様子を「足元の絨毯がジュクッと音を立てた。みると血の海。赤絨毯だから見分けがつかなかったのだ。いまもあの不気味な感触を覚えている」と述懐している。
資料ウイキペディア


東大駒場キャンパス 三島由紀夫vs東大全共闘

三島由紀夫<「伝説の討論会」1969年5月13日

“右と左”の直接対決 三島由紀夫vs東大全共闘「伝説の討論会」、いったい何が語られたのか? - 竹内 明
2020年03月20日 11:00 文春オンライン ttps://bunshun.jp/articles/-/36746

 1969年5月13日。この日、東大駒場キャンパスには1000人を超える学生が集まっていた。

 作家・三島由紀夫と討論するためだ。企てたのは東大全共闘のメンバー。右と左。思想が異なる両者がぶつけあう言葉たち。時に怒号が飛び、時に笑いが起きながら、会場を圧倒的な熱が包み込む――。

 この「伝説の討論会」を記録した貴重な映像はTBSに保管されており、映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』となって日の目を見ることとなった。三島が自決する1年半前に行われたスリリングな討論会。映画化の舞台裏とは――。プロデューサーの竹内明氏(TBS)が綴る。

 50年前、TBSのテレビニュース部には、「学生班」という取材チームがあった。ここに所属する若手記者たちは、東大、早稲田、日大などの大学別、中核、革マル、社青同などのセクト別に担当を分けて、学生たちがいつ大学封鎖を行うのか、どんな街頭闘争に打って出るのか情報収集していた。学生班の記者たちは入社2年目から5年目、大学時代には各セクトに所属した者もいた。かつての後輩たちから情報収集するのだから、うまくいかないわけがない。
 小川邦雄は、当時、報道大部屋のラジオ班の記者だった。東京大学剣道部、体育会出身のノンポリで学生運動とは無縁だった。このためテレビの「学生班」が集めた情報を聞いては、過激さを増す学生らの抗議行動を取材していた。

「東大全共闘が三島を呼んで討論会をやるらしいぞ。行ってみないか?」

 学生班の先輩記者からの誘いがあったと記憶している。小川は東大駒場キャンパス900番教室に出向いた。
 半ば興味本位だった。現場にいたテレビカメラはTBSのみ。全共闘学生たちに紛れて最前列に座った。1969年5月13日。三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹する、わずか1年半前のことだ。
 このとき記録された16ミリフィルム2巻、合計1時間15分20秒は、50年後、TBS緑山スタジオの倉庫から発見されることになる。
 映像の中にあった“カリスマ”の素顔 去年春、原盤フィルム発見の知らせを受けた時点では、私自身、その価値を理解できなかった。三島が自死を遂げたとき、時の首相・佐藤栄作は「気が狂った」と漏らし、防衛庁長官だった中曽根康弘は「迷惑千万」と切り捨てた。政治家たちのこうした言葉もあって、三島事件は「天才作家による狂気のクーデター未遂」と総括されている。
 私にも「三島の価値は優れた文学作品にこそあり、その思想は狂気を孕んだ危険なものだ」という思い込みがあった。だが、ひとたびその映像を目にすると、そこには「狂気」とはかけ離れた、カリスマの素顔があった。50年間、倉庫で眠り続けた三島は、現代を生きる我々に何かを問いかけていた。
〈これは三島の再評価につながる素材だ――〉
 そう確信した。
『ニュース23』でこの映像の一部を放送したのは、その2週間後のことだ。それは凄まじい反響だった。

 先人たちの遺産の全容を世に出す作業が始まった。映画化にあたって、私たちが真っ先に相談したのは、政治活動家の鈴木邦男だった。
「あの討論会の映像を世に出すべきだ、と思ってたんだ」
 早稲田大学時代、民族派学生として新左翼と対立し、楯の会の会員・森田必勝とは同志だった。三島と森田の自決をきっかけに立ち上げたのが、「新右翼」と呼ばれた「一水会」だ。鈴木は、三島と楯の会同様、反米の立場を取り、愛国心という言葉を掲げない。
 高田馬場の地下の喫茶店。映画制作の趣旨を告げると、鈴木は、「前から考えてたんだよ……」と漏らした。「あの討論会の映像を世に出すべきだ、と思ってたんだ」
 
 鈴木は「楯の会」の会員や森田の兄らに電話を掛けはじめた。
「TBSがあの討論会を映画にしたいそうなんだ。協力してやってくれませんかね。……そこをなんとか頼みますよ」

 消極的だった楯の会の会員らに、頼み込んでくれた。内輪でしか議論しない。そんな社会通念をぶっ壊すために 元東大全共闘の前田和男を訪ねたのは、その翌日のことだ。前田は「全共闘のいま」をアンケート調査し、「全共闘白書」にまとめあげた人物だ。討論会を主催した元全共闘の所在を把握しているのは前田しかいなかった。
 前田が我々に紹介してくれたのが、木村修だった。あの討論会で司会進行役を務めたガクラン姿の東大生。三島の自宅に直接電話を掛け、討論会への参加を求めた男だ。才気走った若者は、50年の歳月を経て控えめで温厚そうな老紳士になっていた。
「当時から日本人は内輪でしか議論しないところがありました。そんな社会通念をぶっ壊したかった。だから三島さんに来てもらったんです」
 木村は定年退職後の時間を利用して、かつて敵対していたはずの三島由紀夫の文学、思想を研究し続けていた。

「世の中の三島研究本はダメですよ。分かってない」
 三島論となると木村の眼に強い光が宿る。彼は、敵対していたはずの三島の魅力に取り憑かれていた。

 50年前のあの日、木村は、三島を1000人の学生の前に引っ張り出して論破してやろうと画策していた。学生らは体を鍛える三島を「近代ゴリラ」と揶揄するポスターを貼り、心理戦を挑んだ。

「自らの死」に幾度か言及した三島
 1969年5月といえば、安田講堂が陥落した4ヶ月後、学生運動がセクトによる暴力的地下闘争、内ゲバに移り変わる過渡期だ。東大900番教室には、退廃と緊張が入り交じった異様な空気が漂う。三島の護衛にきた楯の会のメンバーらが全共闘の中に紛れている。

 討論で交わされる言葉は難解だ。テーマは国家、暴力、時間の連続性、政治と文学、天皇……。私たちは、教室に吹き荒れる熱風に晒されながら、飛び回る言葉を一つ一つ捕まえ、分解しなければならない。
 全共闘学生が三島に牙をむく。だが、三島は清らかな眼に、微笑みすらたたえながら、丁寧に言葉を紡ぐ。

 三島はそして「自らの死」に幾度か言及する。
「私が行動を起こすときは……」「自決」
終盤、敵対しているはずの両者の言葉が共鳴 清純な眼差しを見ながら、はたと気付く。
 三島は1年半後の自死の理由を、全共闘学生たちに懸命に理解させようとしているのではないか。私には「この討論会は三島から未来を背負う青年たちへの遺言」と思えてならない。討論の終盤、敵対しているはずの両者の言葉が共鳴している。予期せぬ心理的連帯に眩しさを覚える。

以下割愛

■当該記事、過去に「文春」様より著作権抵触により削除、の要請がありました。今回再度掲載してありますので場合によっては削除の可能性もあります。
2023/2/8 筆者racoco(對馬 昇) 
http://blog.livedoor.jp/raki333/preview/edit/f30e319ce31817a70370934adb0fc176

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死の1年半前、三島由紀夫が東大全共闘と繰り広げた「伝説の討論会」とは
[編集部]吉川慧 Mar. 24, 2020, 05:00 AM 




知らない話の、「三島由紀夫」昔の話を現代的に~

司馬遼太郎と三島由紀夫


「国民作家」の戦争体験 - 福嶋亮大(文芸批評家・中国文学者)
文藝春秋 SPECIAL 2015秋 2015年09月16日 07:00

従軍した司馬と戦場に行けなかった三島。対照的な体験は二人の文学にどのような影響を与えたのか?

 戦後日本の文学者として、司馬遼太郎(1923年生)と三島由紀夫(1925年生)は双璧の存在である。司馬は今なお根強い崇拝の対象であり(日本人にとっての「国民作家」は結局、村上春樹ではなく司馬遼太郎だろう)、三島は古典主義とロマン主義のせめぎあうその小説群に留まらず、戦後日本批判とパフォーマンス的な自殺によって、言論の参照点であり続けている。

 もっとも、この両者を関連づけるのは一筋縄ではいかない。1970年の三島の割腹自殺について、司馬が「さんたんたる死」「異常死」と形容し、あくまで「政治」ではなく、芥川や太宰の自殺のような「文学」の出来事として回収しようとしたことは、よく知られている(「異常な三島事件に接して」)。司馬なりの礼節が尽くされているものの、彼にとって晩年の三島は理解不能の人物にすぎなかっただろうし、ましてその死に深い政治的含意を認めようとするのはたんにナンセンスであった。

 だが、両者に同時代性がないわけではない。例えば、三島が自殺の直前「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」という有名な予言を残してすぐ、司馬が1971年以降『街道をゆく』によって日本の国土を輪郭づけたことは、明らかに共振するところがある。その対照的な生き様にもかかわらず、彼らは、日本のアイデンティティが自明でなくなっていく時代を共有していた。

 私は戦後日本のあり方を了解するにあたって、この両者の比較は有益だと考えている。このテーマについてはすでに松本健一『三島由紀夫と司馬遼太郎』(新潮社)等の著作があるが、本エッセイでは主に司馬を中心として私なりの見解を簡単に示したい。とりわけ「戦争」と「国家」がここでの主眼となる。

写生と虚構
 今日の私たちは、戦時中の日本は「軍国主義」であったと教えられている。しかし、司馬の考えでは、当時の日本はそれ以前の段階、すなわち軍国主義もまともに遂行できない不出来な国家であった。司馬の『歴史と視点』(1974年)所収の警抜なエッセイ「大正生れの『故老』」によれば「〔第二次大戦の頃の日本陸軍の装備は〕満州の馬賊を追っかけているのが似合いで、よくいわれる「軍国主義国家」などといったような内容のものではなかった。このことは昭和十四年のノモンハンでの対ソ戦の完敗によって骨身に沁みてわかったはずであるのにその惨烈な敗北を国民にも相棒の海軍にも知らせなかった」。

 司馬によれば、こうした「集団的政治発狂者」による国家的な「愚行」を象徴するのが、合理的な軽便性を欠き、装甲も薄っぺらな九七式中戦車(通称チハ車)であった。戦場の司馬は、まさにこの見掛け倒しの「憂鬱な乗り物」であるところのチハ車に乗らされる。昭和期の行政官僚や陸軍が現実離れした「形而上的ポーズ」に支配され、正常な自己認識を失った結果として、兵士の命を脅かす時代遅れでポンコツの戦車ができてしまう ―、戦争は善か悪かという問い以前に、司馬にとってはまずこの日本軍の奇怪な行動様式こそが最大級の批判に値するものであった。

 もっとも、ここで司馬は、下品な恨みつらみにならないように言葉を選んでいる。正岡子規を敬愛していた司馬は、国家の愚かさを高みから裁断するのではなく、自分自身をも客体視する「写生文」の手法を巧みに用いている。むろん、チハ車が徹甲弾にやられて「自分が挽肉になるという想像は愉快なものではなかった」にしても、この深刻な想像を描くとき、司馬の筆致は独特のユーモアを醸し出す(「挽肉のことを書こうとしているのではない。/機械のことを書くつもりだった」)。それはちょうど、死後の自分のありさまを落語のように描いた子規の写生文とどこか通じるものがある。

 要するに、司馬は戦場に何のロマンも幻想も認めていない。彼にとって、戦場とはただ、軍国主義すらグズグズにする日本の愚かさが支配する空間にすぎない。彼の写生文は、一兵卒である自分自身も含めて、すべてを等価なモノのように扱う。そして、この非熱狂的な文章技術によって、馬鹿げた戦争の描写には奇妙な「おかしさ」が宿り得るだろう。

 それに対して、三島由紀夫は戦場から疎外された人間である。入隊検査で誤診されて即日帰郷を命ぜられたことが、後々まで彼の感情的負債になったことは、よく知られている。戦場で死ぬはずであった自分が戦後も生き延びて、なぜか時代の寵児になってしまったという不発感は、そのまま戦後日本のちぐはぐな状況― 敗戦とともに滅亡するはずが、なぜかのうのうと生き延びて経済的繁栄を謳歌している―とぴたりと重なりあう。戦後日本社会も自分自身も死に損ないの漫画的存在だというところに、三島の立脚点がある。天皇主義を掲げて「文化防衛」を唱えたことも、所詮は三島一流の虚構、すなわちお笑いにすぎない……。

 こうした「戦場からの疎外」は、三島の小説にも反映される。例えば、日露戦争から戦後社会までを舞台とした畢生の大作『豊饒の海』の第三部『暁の寺』で、真珠湾攻撃の開始の報を聞いた主人公は、すぐさまインドの輪廻哲学に思いを馳せ、東京大空襲の廃墟を見渡した際には、そこに自らの「輪廻転生の研究」を投影する。それは戦場をファンタジーに変えることであった。三島はすでに戦時中の作品「中世」において、応仁の乱で廃墟化した日本に高貴な美男子の霊を降ろそうとする権力者を描いたが、『暁の寺』においてもなお、戦争のまっただ中にあえて仏教的な世界像を書き込んでいた。三島は戦争(戦場)を写生する気がまったくなかった。

 司馬が「写生」を旨とした作家であったとすれば、三島は「虚構」に取り憑かれた作家である。戦場においてあらゆる甘い幻想を打ち砕かれた作家と、戦場に行きそびれてヴァーチャルな幻想を再生産し続けた作家  ―、この両者はまさに日本の戦後文化の両極を指し示している。

思想不信と破壊願望

 ところで、司馬や三島が活躍する傍らで、戦後の日本社会で哲学の地位が失墜したことは注目に値する。京都学派を筆頭に、戦前の有力な哲学者たちが司馬の言う「国家的愚行」に加担した以上、戦後日本が知に対する不信感を抱え込んだとしても不思議ではない。

 この点で、司馬はまさに「戦後日本的」な言論人の典型であった。彼にとって、抽象的な知や思想はまるで信用に値しなかった。例えば、彼は1969年の梅棹忠夫との対談で、日本史における「思想」は「アルコール」のようなものにすぎず、今後の日本人はその酩酊から覚め、世界に先駆けて「無思想時代」に入るとまで述べていた(『日本人を考える』)。さらに、戦争に関しても、反戦・非戦を声高に叫ぶよりも「日本は地理的に対外戦争などできる国ではない」という「小学生なみの地理的常識」から始めたほうがよいと提言する。思想を「白昼のオバケ」と見なした司馬は、日本の歴史と地理をしておのずと真理を語らしめようとした。

 こうした態度は、司馬の独特の文体とも共鳴している。彼の小説やエッセイは、いかめしい論考のスタイルではなく、むしろ気取らない談話のスタイルで書かれた。そこでは日本語が自由に呼吸しているが、そのぶん作家の気分次第の「脱線」に流れるところも多く、文学作品としての緻密さを欠いている。しかし、歴史を私的かつ公共的な口語体で書くというこの発明こそが、司馬を「国民作家」の地位に引き上げたのは明らかである。

 それに対して、三島は「知的なもの」に対しては屈折した態度を示した。むろん、彼ほど圧倒的な知性と教養を備えた日本人作家は他にいないが、にもかかわらず、彼ほどインテリを軽蔑してみせた作家もいない。彼がこれ見よがしにボディ ビルをやり、悪趣味な邸宅に住んだことは、その現れである。さらに、先輩の谷崎潤一郎が自己の素質を見誤らず、インテリぶらずにとことん変態(!)であり続けたことに、三島は賛辞を惜しまなかった(『作家論』)。漱石や鷗外を例外として、偉大な教養人であることと優れた小説家であることは両立しがたい―、その事実を三島は重く受け止めていた。

 このように、司馬も三島も思想への不信という点では共通している。ただし、戦後社会についての評価は大きく異なっていた。司馬は『街道をゆく』で国土を辿り直す一方、列島改造計画によって日本の土地状況が致命的に混乱させられたことを憂えていた(驚くべきことに、彼は土地を公有化すべきだとすら主張した)。しかし、虚構の作家である三島は、司馬ほど日本の国土への愛着はない。彼の小説は特定の土地に拘束されない。先述したように、初期の「中世」から晩年の『豊饒の海』に到るまで、日本国はヴァーチャルな幻想の「依代」であり、それ以上でも以下でもなかった。

 三島は戦後社会の寵児であったにもかかわらず、戦後の空虚さには耐えられないというポーズを幾度も示していた。戦後社会の醜さは土地の公有化などによってどうこうなるものではなく、ただ金閣寺のように焼き払うべき対象であった。これと似たような発想は、三島だけではなく、例えば小松左京(1931年生)の『日本アパッチ族』や『日本沈没』にも認められる。小松にとっても、戦後社会の繁栄は偽りであり、だからこそそれをハチャメチャなSFのなかで滅亡させなければならなかった。小松は日本全体をヴァーチャルな戦場に変えてみせたのだ。

 戦場を知らない作家たちのこの破壊願望は、戦場で「挽肉」にされかかった司馬には到底共有できないものであっただろう(その願望は、日本を自滅させた戦前の「国家的愚行」とどこが違うというのか?)。三島や小松のタナトスは今日のサブカルチャーにまで受け継がれているが、司馬の写生文はまさにこのサブカルチャー化する破壊願望に暗に抵抗していたと言えるだろう(ちなみに、この点で、終末世界を描いたアニメーション作家の宮崎駿が、司馬を敬愛していたのは興味深いことである)。





02018三島由紀夫



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