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マタ・ハリのスパイ伝説

「マタ・ハリ」スパイ伝説はほんとうか?
その「マタ・ハリ」~とは、いわくありげな名前だか、その通りで、本名はマルガレータ・ヘルトロイダ・ツェレだが、それではステージ受けしないと、当時のプロデューサーが付け名前だった。

若くして夭逝したが、一説によるとフランス国のスパイ暴露秘話が世間に知られることを恐れて処刑した、というのが筋のようで、それは中世の伝道師ブルーノが火炙り刑で殺されたのと同様だ。その罪とは、ガリレオ等の主張した地動説を一緒に唱えキリスト教会を侮辱したという罪だった。

踊り子からスパイへの華麗なる転身二十世紀最大の女スパイ、マタ・ハリ(マレー語で「昼間の月」の意味)、その類稀なる美貌で男たちの目を眩ませ、その裏ではドイツのスパイとして暗躍した。

東洋のジャワから来た踊り子と云う触れ込みでパリにデビューしたマタ・ハリだが、実際は一八七六年に生まれたオランダ人で、本名はマルガレータ・ヘルトロイダ・ツェレと云った。

十八歳の時に、軍人と結婚して赴いたジャワでの経験を活かし、現地仕込みの妖艶な踊りをパリで披露したのだ。マタ・ハリは、その肢体と美貌で、ヨーロッパ中でたちまち売れっ子となった。

マタ・ハリは貴族や高官など上流階級の男たちとの情事に耽っていたが、第一次世界大戦勃発後は、その美貌を武器にスパイ網の一員となる。
彼女が活躍したのは二年間に過ぎなかったが、一九一七年、ある暗号文を傍受したフランスは、H21号と云う暗号名のドイツのスパイが、予てから目を付けていたマタ・ハリだと察知し、遂に彼女を逮捕。同年の十月に「銃殺の刑」に処せされた。(1917年10月15日フランス)

一説に因ると、マタ・ハリはスパイではなかったという説もある。彼女がドイツやフランスの要人たちと多数の関係を持っていた為に、疑われたに過ぎないのだと言う。
また、マタ・ハリはフランスのスパイに勧誘され、それを知ったドイツが偽情報を流して彼女を逮捕させた。そして、フランスも逮捕後にその事に気づきながら、戦意を鼓舞する為に彼女をスケープゴードに仕立てたと云う説もある様だ。

しかし、マタ・ハリが美し過ぎた故に、男たちに目を付けられたと云う事は、あながち否定はできないだろう。果たして、真実はどうだったのだろうか。

1914年激戦地のヨーロッパ 画像説明 宝石とブラジャーを身に付けたマタ・ハリ(1906年)頭部に宝石を身に付けたマタ・ハリ(1910年)

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1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺され、これを契機に第一次世界対戦が始まり、ヨーロッパ各地が戦火に包まれた。
マタ・ハリも仕事が減り、収入も減っていった。そして対戦真っ只中の1915年の秋、なぜか「ドイツの領事」が、マタ・ハリに連絡をとってきた。ドイツ側のスパイになってくれという。スパイになって、フランス側の情報を探ってくれというのだ。

もちろんこれは、マタ・ハリがヨーロッパ各国で、軍関係者や政界にも知り合いが多いということを知った上での依頼だった。報酬は弾むとの言葉を受け、マタ・ハリはこの話を受ける。マタ・ハリには「H21」というコードネームがつけられた。

--話は「007ジェームスボンド」映画シナリオ、そのもので、それをもとに本映画ができたといってもおかしくないだろう。また、いま世界中の喧騒話題作「ゴーン被告レバノン脱出逃亡」も同様に、国際的逃亡犯罪として注目を集めていて、そんなことも併せて、この「マタ・ハリ」を登場させた。たまたまテレビ番組でやっていたものを後に資料を集め再構成した。

マタ・ハリは好きでダンサーになったわけではなかった。父が起業家いまでいうスタートアップで帽子屋が成功して財をなし、そこから株投機で失敗し、全財産を失い、そして一家も離散してマタ・ハリは幼い頃から、仕事をしなければならなかった。それを示すように残されていた手紙類の筆跡は、知性を漂わせ頭脳明晰であることが想像された。ただしそれだけでは生きていけないのが人の世だ。

そうした人生履歴を覗くと、かのゴーン被告もまったく同様の足跡をたどっていて、極貧生活の辛酸をなめている。また、「日産企業」という役職にあった立場を利用して暴利をむさぼった、とされているが、ゴーン被告が、まだ日本市場に未知だったころ、外部ルートによって日産招聘を打診されていたという事情がある。すべての話しは不可逆でありもとには戻れない。--

※普仏戦争はフランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国とプロイセン王国の間で行われた戦争である。 プロイセンは北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国と同盟を結びフランスに圧勝した。 ウィキペディア資料

一家破綻の運命を生きる

マタ・ハリ(Mata Hari, 1876年8月7日 - 1917年10月15日)は、フランスのパリを中心に活躍したオランダ人の踊り子(ダンサー)、ストリッパー。第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された。
「マタ・ハリ」はダンサーとしての芸名であり、本名はマルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレ(Margaretha Geertruida Zelle)。世界で最も有名な女スパイとして、女スパイの代名詞的存在となった。

オランダフリースラント州・レーワルデンにて、アムステルダム生まれのアダム・ツェレ(1840年10月2日 - 1910年3月10日)と、フリースラント出身の母アンテェ・ファン・デル・ムーレンの間にて、4人兄弟の長女として生まれる。
後世に知られる東洋風の芸名である「マタ・ハリ」とは裏腹に、マレー系などの東洋系のを血を引く祖先はいないとされている。

父が石油産業への投資の成功や人気帽子店を経営していたことにより、一家は贅沢な暮らしができるほど裕福であった。唯一の娘ということもありマルガレータは父から溺愛され、何不自由無い生活を送り、13歳まで上級学校に通えた。

しかし、マルガレータの父が石油株投資に失敗すると事態は一変する。損失を借金で補填すると、その借金は雪だるま式に増えていき、1889年ついに破産。その後両親は離婚し、マルガレータを含め子供達はそれぞれ別の親戚の元へ引き取られる。母は1891年に亡くなった。父はアムステルダムにて、1893年2月9日にスザンナ・カタリーナ(Susanna Catharina ten Hoove, 1844年3月11日 - 1913年12月1日)と再婚した。

一家は離散し、マルガレータは自分の後見人であるHeer Visserを頼ってライデンに移住する。経済的独立に迫られたマルガレータは、同地にて幼稚園の教諭になるために勉強するも、学長が彼女と露骨に戯れるようになったため、気分を害した後見人によって施設から追われた。

わずか数か月後、彼女は叔父の家があるデン・ハーグに逃れている。19歳の時、新聞に掲載された結婚相手募集の広告に応募し、21歳年上のオランダ軍将校ルドルフ・ジョン・マクリード大尉と結婚する。出会いから僅か100日のことだった。
結婚後は夫の仕事に伴い、駐留先のボルネオ、スマトラ、ジャワへ帯同し、2児を儲ける。しかし、元々愛のある結婚ではなく、若く派手好きなマルガレータとの価値観の不一致、加えて夫の女癖の悪さや暴力から夫婦仲はすぐに悪化してしまう。さらに息子が亡くなったことで、結婚から7年後の1902年に離婚。子供は夫が引き取った。

離婚したマルガレータはオランダへ帰国し、間もなく職を求めフランスのパリへ渡る。だが、なかなか恵まれた仕事に就くことが出来ず生活は困窮していく。ある日、友人のパーティーの余興で見よう見まねのジャワ舞踊を披露するとそれが受け、ダンサーの話が持ちかけられる。

1905年、エキゾチックな容姿を活かし、「インドネシア・ジャワ島からやって来た王女」ないしは「インド寺院の踊り巫女」という触れ込みでダンサーとしてデビュー。

「オリエンタル・スタイル」の舞踊を演じた。ショーは好評を博し、興行的にも成功を収めた。この成功を機にマルガレータの踊りは話題となっていく。
最初は小さなサロンで少人数の客を相手に踊りを披露する程度であったが、やがて活動の場は欧州中に広がり、遂にはイタリアのミラノ・スカラ座で公演を果たすなど、一躍人気ダンサーとなった。この頃から、より観客に受けるよう東洋的な「マタ・ハリ」の芸名を名乗り始める。
なお「マタ・ハリ」とは、「太陽」あるいは「日の眼」を意味するムラユ語(マレー語またはインドネシア語)に由来する。

彼女はまた、多くの高級士官あるいは政治家を相手とする高級娼婦でもあった。「マタ・ハリ」ことマルガレータは、数知れないほど多数のフランス軍将校あるいはドイツ軍将校とベッドを共にしたとされ、国際的な陰謀の道具となっていった。

1917年2月、彼女はフランスにおいて二重スパイとして第一次世界大戦で多くのドイツ人、およびフランス人兵士を死に至らしめたとの容疑で起訴された。その逮捕は、ドイツの在スペイン駐在武官がマタ・ハリを暗号名「H-21」なるドイツのスパイとした通信がフランスによって解読されたことからなされた。

当時、戦況はフランスにとって不利であり、政府は戦争による甚大な被害の責任の所在を追求されていた。そのため、フランス政府にとって全ての軍事上の失敗をマタ・ハリの責に帰することは大変好都合だった(輸送船がUボートに沈められたのも彼女の働きにされた)。

1917年7月24日、彼女は有罪となり死刑判決が下された。同年10月15日、サンラザール刑務所にて銃殺刑に処せられた。

マタ・ハリはフランス軍およびドイツ軍にとって諜報要員であったことは確かだが、彼女の活動は非常に低級レベルであり、独仏どちらの陣営に対しても意味のある情報をもたらした証拠は一つもない。また、諜報活動が正確にどのようなものであったかについては、歴史家も明らかにできていない。

裁判、処刑についてもさまざまな逸話がある。よく知られたものは、裁判の際は処刑を免れるため支援者より妊娠していると申告するよう勧められたが本人が拒否したというものである。

処刑の際、銃殺隊はマタ・ハリの美貌に惑わされないよう目隠しをしなければならなかったというものがあるが、これが真実とすればいったいどうやって正確に彼女を狙撃できたのだという疑問がでてくる。他にも、彼女は銃殺の前兵士たちにキスを投げた、あるいは銃殺寸前にロング・コートの前をはだけ、全裸で銃殺された、という話もある。

処刑前のマタ・ハリは泰然自若としており、気付けのラム酒一口は受けたものの目隠しあるいは木にくくりつけられることは拒絶したといわれている。
これにはさらに疑わしい尾ひれがあって、ピエール・ド・モリサックなる青年が銃殺隊に賄賂を送って銃には空砲が込められるように図られていたのに実際には実弾が発射されてしまい彼の企みは失敗したというものである。しかし、実際にはありえないもので、プッチーニのオペラ『トスカ』にヒントを得た作り話と見られる。

『ブリタニカ百科事典』によればマルガレータはしばしばマルガレータ・ヘルトロイダ・マックレオドとも名乗り、舞台でも「レディー・マックレオド」と名乗っていたこともあったという。マタ・ハリの生家は美容院として使用されていたが、2013年10月19日に火災で焼失した。

マタ・ハリを題材にしたフィクション作品
オランダにあるマタ・ハリの像
『マタ・ハリ』:1927年のドイツ映画。マグダ・ソーニャ主演。
『マタ・ハリ』:1931年のアメリカ映画。グレタ・ガルボ主演。
『間諜X27』:ガルボの『マタ・ハリ』と同じ年に製作されたマレーネ・ディートリヒ主演の映画。ヒロインのモデルがマタ・ハリと言われている。
映画の『007 カジノ・ロワイヤル』(1967年版)ではジェームズ・ボンドと恋愛をして娘(マタ・ボンド)を産んだ設定になっている。
『魔性の女スパイ』:1985年のアメリカ映画。シルビア・クリステル主演。
TVシリーズ『インディ・ジョーンズ若き日の大冒険』の1916年パリのエピソードで、主人公のインディとひかれあうドラマ展開がある。
『R.O.D -READ OR DIE-』:に登場する女エージェント、ナンシー幕張の正体が、マタ・ハリのクローンとされる
『Fate/Grand Order』:に登場するサーヴァントの1人。
『マタハリ(ミュージカル)』:2016年韓国初演のミュージカル。オク・ジュヒョン等主演、リュ・ジョンハン、オム・ギジュン等出演。
ウイキペディア資料

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