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いまさら古典か?能「仏原」

8月13日、盆初日ですからね、それに沿った話しでもしようかと、古籍を還してみました。

ついせんだって話した「清盛」にまつわる「白拍子」仏御前の色恋の戯れを能で舞う、という今では難解の「能」です。

多分、読者の99パーセントの方が知らないとおもいます。私も知りません。もともと雅楽、神楽奏者ですが、日本古典の代名詞と云うべき能、狂言は、知識が必要です。

この「仏原」にしても、内容は源平の時代ですから千年前、と云うことになります。その他の古典として「源氏物語」「徒然草」など著名ですが、歴史的に能、狂言は、世襲伝承形態として、代々家系として門外不出芸能ですから、一般的な芸ではなかったようです。

それは雅楽でも同じで、歴史的には「聖徳太子」が蕃楽(唐渡来系ばんがく)として、導入したと古文書にありますから、これが一番古い古典芸能と云えるでしょう。

もともと宮中音楽、社寺の行事音楽でしたから、厳格なスタイルがあって、式進行に合わせて舞ったり演奏したりするので、それを覚えるだけで大変でした。
ではそれが近代になって、どこかで演奏しているかといったら誰も知らない。やってないことはなくて、調べれば大小、様々な場で、洋楽と同じくらいライブ演奏してます。ただ大衆的でない、という点で知らないだけです。

それは他の古典、能、狂言も同じで、どこかでやっているはずの場所と時間が判らない。と云うより身の回りに、その情報が出回っていない。むしろ宣伝費を掛けただけの売り上げが期待できないとなれば、ポスターにしろSNS
広告だって、寡黙になるでしょう。

あと、ですね戦後の法体系で、日本的思想芸能古典が、国粋主義復興アリ、と云うことで排斥されたという経緯もあります。つい最近でも、大阪の文楽でしたか、補助金カット(橋下知事)なんてこともあって、一般人の無理解を露呈したようです。

そんなことを諸々考えるとこの日本は、負けたことによってほぼ半分以上を失ってしまったという事実です。

あと数日もすると15日敗戦記念日ということで、メディアは、報道特集するでしようが、お決まりの東京全土焼野原死体と広島長崎原爆投下、皇居前の陛下勅令に涙する映像が定番報道されますが、それによって戦争阻止啓蒙がされるとは到底思えません。
想起
今では戦争想起した当事者軍人トップの無能ぶり、満州国創設時の無策など、そうしたものの分析と追及(メディア)がされてない現況では、やはり敗戦国という失態汚点は、そのままであり、国民は、なぜ戦ったのか、という大義まで喪失してしまったままです。

その中での「半分以上を失った」というのは人的物理的も当然ですが、いわゆる「西洋化」という精神性の面で日本人の失ったもの、を云っているわけです。

とは云っても個人的には、アメリカナイズを否定するものではありませんし、世界グローバル時代であればこそ、同盟国という認識は外すことは出来ません。

話しを戻しますが、その「日本伝統古典」を私個人が一人で声高にアピールしたところで、殆ど効果はない徒労感と、認識してますが、じゃそのままでいいかといったら、そんなことではありません。

その全国にある「神楽」など、昭和時代に折口信夫、柳田国男らによって書き残され、また、それらが電子版記録によって、いつでもだれでも、見る読むことができます。ただ、それを知ろうとする「民の意識」が、低いと云うことはハッキリしていると私は思います。ですからその啓蒙てす。

そうした諸諸条件を、ひっくるめて「アイデンティティー」の欠如とか、自国文化の無理解などと、揶揄するのは簡単ですが、反対に肯定アクティブに、考える、作るというのは、とても難しいことで手間暇と、そして金がかかります。
そして最大の難問、この日本(世界最速)で後継者の絶対数が激減しているという事実です。数年間の当座は、数人で維持は出来るでしようが、やがて、その場所の過疎化という現実に、伝承者が散逸してしまえば、その百年の歴史はいとも簡単に終わるということです。

それは誰にも止められない個人の事情は簡単に犯せないという現実は、目に見えないだけに、厄介なことなんです。
それでもあと何年したら復活する、という期待だけは抱き続けたいと思ってます。


玉前神社 神楽天狐


「仏御前」の伝承 
平家物語における仏御前 「妓王」

『平家物語』一方本における仏御前のあらましは以下の通りである。平家の棟梁である平清盛は、妓王(祇王)という白拍子を寵愛していた。妓王が清盛に仕えて三年後、16歳の仏御前が清盛の前で舞いたいと申し出てきた。清盛は不快に思い、「祇王があらん所へは、神ともいへ、ほとけともいへかなうまじきぞ」と言い、仏御前を追い返そうとした。しかし妓王がとりなしたため次のような今様を歌い、舞を一指し舞った。

画像 新橋ステーション ウイキペディア


ウイキペディア


君をはじめてみる折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ

清盛はたちまち仏御前に夢中になり、妓王は清盛邸を追い出されることとなった。
妓王は涙に暮れ、「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき」という歌を障子に書き付けて屋敷を出た。
その後妓王は仏御前を慰めるためとして、清盛の屋敷に呼び出されて舞を舞わされた。屈辱に耐えかねた妓王は母の刀自と妹の妓女とともに出家し、往生を願って念仏三昧の日を送る。

ある夜、妓王のもとに尼姿となった17歳の仏御前が訪れる。妓王の残した歌により、この世の栄華は儚いと悟り、清盛の寵愛を振り捨てて出家の道を選んだのだという。妓王は旧怨を捨てて仏御前を迎え入れた。四人はその後往生の素懐を遂げ、長講堂の過去帳に書き入れられた。

加賀国には仏御前の生涯にまつわるさまざまな伝承が存在している。『平家物語』のうち語り本系には仏御前が加賀国出身であるという記述があるなど、加賀国と仏御前の関連は古くから伝えられていた。世阿弥作とされる謡曲「仏原」は、加賀国に帰った仏御前の霊が、旅僧によって供養されるという話であり、世阿弥が加賀国の伝承を伝え聞いた可能性はある。

加賀国の原村(現石川県小松市原町)はかつて仏原(仏が原、仏の原)と呼ばれ、乾漆像の仏御前像が伝承されている。宝永年間に仏原の住民によって書かれた『仏御前事蹟記』では、仏御前が清盛から授けられた阿弥陀如来の木像を持って仏原に帰郷し、善知識として慕われ、極楽往生を遂げたとされる。

仏御前像とともに伝来する「仏御前影像略縁起」では、以下のような仏御前の略歴が書かれている。永暦元年1月15日(1160年2月23日)、原村に生まれる。父の白河兵太夫は、原村の五重塔に京より派遣された塔守である。なお、この五重塔は、花山法皇が那谷寺に参詣した折、原村が、百済より渡来した白狐が化けた僧侶が阿弥陀経を唱えたことから弥陀ヶ原と呼ばれ、原村になったというエピソードと、原村の景観に感動し建立したものである。

2023年08月13日記事

能 仏原(ほとけのはら)

政争と戦乱の続く源平の時代。運命に翻弄されつつも、遂に救いを得ることのできた一人の女性。その彼女は今、澄んだ心で”仏”の舞を舞いはじめる…。

作者不詳 金春禅竹か場所加賀国 仏原(ほとけのはら) 現在の石川県小松市原町か季節晩秋分類三番目物 本鬘物

登場人物
前シテ里の女面:若女など 唐織着流女出立(一般的な女性の扮装)後シテ仏御前の霊面:若女など 立烏帽子長絹女出立(女性芸能者の扮装)ワキ旅の僧着流僧出立(僧侶の扮装)ワキツレ旅の僧着流僧出立間狂言所の者長裃出立(庶民の扮装)

僧侶の一行(ワキ・ワキツレ)が加賀国 仏原を訪れると、一人の女(シテ)が声をかけ、いにしえ平清盛に愛されつつも結局は仏の道へと入っていった「仏御前」という女芸能者の霊を弔ってくれと頼み、草堂の内へと姿を消す。実はこの女こそ仏御前の霊だったのだ。
夜、僧たちが弔っていると仏御前の霊が在りし日の姿で現れ(後シテ)、弔いに感謝し、舞を舞う。その舞は、今や仏道をきわめた彼女の、悟りの境地を体現する舞であった…。

ストーリーと舞台の流れ

ワキ・ワキツレが登場し、自己紹介をします。

晩秋。紅葉の深まりゆく他所の山々とは異なり、ここ白山の地では、雪がしんしんと降りつづいている…。 その白山を目指してやってくる、修行僧の一行(ワキ・ワキツレ)があった。日本海沿岸をはるばる旅してきた彼らであったが、加賀国 仏原にさしかかったところで日が暮れてしまったので、今夜はこの原にある草堂に泊まることにした。

2 シテが、ワキに言葉をかけつつ登場します。

「もうし、お坊様…。」そこへ現れたのは一人の女(シテ)。女は、今日はある人の命日なので弔って欲しいと言う。「いにしえの仏御前という女芸能者は、この国の出身の者。都へ上り名声を博しましたが、後には故郷であるこの地へと帰り、そこで亡くなったのです。この草堂こそが、その臨終の地…。」彼女は、仏御前の弔いを一行に頼むのであった。

3 シテは、仏御前の物語を語ります。

──その昔。平清盛は、はじめ祇王・祇女(ぎおう・ぎじょ)という遊女の姉妹を寵愛し、そば近くに召し置いていた。ところが仏御前が召されるようになってからは、姉妹は捨て置かれてしまうのだった。この世は思いのままにならぬもの、頼むべきはただ弥陀の教え…。姉妹は山奥に庵を結び、仏の道を志す。そこへ現れたのは、なんと尼姿となった仏御前。彼女は、自分のために捨てられた姉妹を気遣い、この世の栄華を捨ててやって来たのだった。祇王は、彼女こそ真の仏よと、感激の涙にむせぶのであった…。

4 シテは自らの正体を仄めかして消え失せます(中入)。

聞くも哀れ、語るも憐れの昔物語。しかし、その仏御前を弔ってくれと言うこの女は、いったい何者なのだろう…?

「私のことを知りたくば、私の帰ってゆく先をご覧下さい。この堂の主である”仏”というのも、実は…。」 そう言うと、女は草堂の内へと入っていったのであった。

5 間狂言がワキに物語りをし、退場します。

そこへ、この原に住む男が現れた。彼は、僧たちに尋ねられるままに仏御前の故事を語る。先刻の女が仏御前の霊だと確信した一行は、供養のため、今夜はここに留まることにした。

6 ワキ・ワキツレが供養していると後シテが現れ、〔序之舞〕を舞います。

夜。冷たい風が、松の梢を吹き抜ける。一行は、仏御前の冥福を弔うべく読経を始める。

明け方も近づき、遠くの寺から鐘の音がかすかに聞こえてくる頃。僧たちの夢枕に、仏御前の幽霊(後シテ)が姿をあらわした。再び娑婆世界へと帰ってきた彼女は、弔いに感謝し、、”仏”という名に因んで、仏法讃歎の舞を舞い始める…。

7 シテは澄んだ悟りの境地で舞を舞いつつ姿を消し、この能が終わります。

思えば、この世は夢のようなもの。釈迦は既にこの世になく、次の仏が現れるのは遠い未来なのだから。それと同じように、この夜もまた、儚いものだった。鐘の音も響き、鳥の囀りが聞こえはじめ、早くも夜は明けてゆく…。

「一滴の雫が滴り落ち、そこから万物が生まれてゆく。そのように”世界”を創出してゆく舞姿、それこそが、この”仏”の舞の奥義なのです。」 そう言うと、仏御前の霊は消えていったのだった。

みどころ
能には、『平家物語』を題材とする作品が数多くあります。平家の行く末を悲観して身を投げた平清経(〈清経〉)、まだうら若い十六歳にして戦場に散った平敦盛(〈敦盛〉)、平家滅亡の全てを見届けて勇壮な最期を遂げた平知盛(〈碇潜〉)など、平家の武将たちにはそれぞれにドラマがあり、能に描かれて、こんにちまで伝わっています。

その一方で、『平家物語』からは、これら武将たち以外にもさまざまな人物が能に取り上げられています。高倉天皇の最愛の女性でありながら時代の流れに抗い得ず宮中を去った小督局(こごうのつぼね)を描く〈小督〉や、平家一門の栄華と凋落を全て目の当たりにした建礼門院の回想を主題とする〈大原御幸〉などが、それに当たります。戦(いくさ)というものは、戦場で戦っている武将たちだけに留まらず、その背後にいる多くの人々をも悲しい運命へと巻き込んでゆきます。その、運命に流されていった悲劇の女性たちを描くことが、これらの作品のテーマとなっているのであり、「もう一つの源平合戦」とも言うべきドラマが、そこにはあるのです。

そして本作もまた、そのような女性を描いた能の一つです。上記「3」で述べられる、仏御前と祇王・祇女の物語は、もとは『平家物語』に載せられている話ですが、それによれば、尼姿となって祇王・祇女の修行している庵室を訪れた仏御前は、そのまま祇王姉妹やその母とともに仏道修行に励み、四人は過去のわだかまりも無く心を一つにして仏を念じたといいます。そうして、「みな往生の素懐を遂げけるとぞ、聞こえし」と、『平家物語』には記されています。

この「みな往生の素懐を遂げけるとぞ、聞こえし」という描写は、〈大原御幸〉の典拠となった『平家物語』「灌頂巻」にも記され、『平家物語』の掉尾を飾る文句ともなっています。戦乱や政争といった暗い内容が続く『平家物語』の中にあって、かすかな救いの光となっているのが、この仏御前らの極楽往生であり、また建礼門院たちの極楽往生なのです。

本作では、今や悟りの境地に達し、文字通り”仏”となった仏御前の、澄み切った心の境地が、舞という形で表現されています。運命に翻弄されつつも遂に救われることを得、清らかな境地に達することのできた女性の、”もう一つの平家物語”をお楽しみ下さい。

(文:中野顕正 2011年11月青山能「佛原」シテ:浅井文義


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