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荒海に横たわる天の川のさびの域

日本に逆輸入された茶道の、わびさび

先日ニューヨークを訪れた際、マンハッタンにある日本の書店に立ち寄った。日本に関する英語の本が並ぶなか、「わび・さび」専用の棚があり、『わび・さびの恋愛術』『わび・さび道』『芸術家、デザイナー、詩人、哲学者のためのわび・さび講座』などのタイトルが陳列されていた。
いったい「わび・さび」とは何なのか、そしてなぜ「寿司」や「空手」といったジャンルと並び、独自のコーナーが設けられるほどの扱いを受けているのか 部分引用

先月、外仕事での天気のいい日、とある現場の傍らに車が止めてある。国産車にしてはサイズがデカいので、一回りして全体を観察してみた。走っている姿をたまに見るが、ことさら細部はみえないので、その止まっていた車を、まじまじ観察していると、中から「若いママ」が出てきたので、念のため断って理由を訊くと、予想していた通りの返事だった。「車が好きなので、安かった中古車があったので買った」、という返事だった。

それがどのメーカーであるかは、正面に燦然と輝く巨大なエンブレムを見れば、一目瞭然だった。それで、その車が100パーセントの確率で逆輸入車であることが判明する。特にそれが注目された車と云うことではない。

それとはノーマークだった昔の話し。□ジョナからは、「寿司を食べるシーンで、本当はレオが『ハマチを食べろ』というはずだったんだけど、僕が先に言ってしまったので、レオはずっとハマチを食べることになってしまった」と撮影の裏話も。ディカプリオは、「最終的に50枚も食べたよ」と苦笑いで、「気持ち悪くなってしまった」、映画東京ロケ「ウルフ・オブ・ウォールストリート」2014年1月30日 のネタ話し。
その後でスタッフが暴露したわけが慄然とする。ハマチ寿司は、ロケ用にスタッフがスーパーで買った安物で、おまけに保冷しないまま使ったそれをディカプリオが食ったという逸話というか日本を知らないというか、初歩のミスだった。

だから、話の「逆輸入」もいろいろあるという実話をしたかったが、これからするのは、正当、わびさびの日本流の井戸端テーマ(逆輸入)だが、これって日本人の何人が知っているのか疑問もあったのでディカプリオ逸話も出したのだった。

わびさび、で思うのは 今も現役、茶の湯作法であったり、また格式の高い三流派「三千家」「表千家」、「裏千家」、「武者小路千家」(むしゃこうじせんけ)の三流派である。
その中の茶杓(ちゃしゃく) は茶道具として欠かせないが、かなり高価なものもあると訊く。(素材は煤竹、今度作ってみようと思う)

その記事に付いては、茶道について多くは触れてないが、大きく括れば、そのほかの中にも曖昧模糊としてわびさびは、さまざまに実在するが、まるで空気のようなそれを西洋的な「原論」「定義」の型として呼ぶのは難しい気がした。(所詮、日本人が判らないのに、アメリカ人(そのほか~)が判るはずがないという紋キリ型反論は有効だと推察するが?)

そもそも、それを日本人が相手に説明しようとすると話に詰まる。
多分それは義務教育で習得してないし、試験問題の項目にもならない難解さがあるからだろう。

もっとも、その日本のわびさび文化を堪能しようとしている西洋人は意識高い系だろうし、比率にしたってせいぜい1パーセント以下くらいだと思われた。 

だから、YouTubeでよく見る日本語ペラペラの若い外人娘が、日本大好きと無条件に放言するリテラシーは、そのわびさび、まで到達するにはまだ時間が掛かるだろうし、最後まで理解しえないだろうし、たま知らなくたって日本生活はできるのであり困らないと思う。せめてお茶、はやっているか?

だから、私なりの解釈を述べておきたいと思う。個人的には伝統音楽の神楽また雅楽演奏者ですが、それが条件下、とまでは云わないにしても、理解の足しにはなります。

スタンフォード大学の日本文学名誉教授だった故・上田真は、
「さびとは、愛する人を失った男の孤独ではなく、夜に大きな里芋の葉に降りかかる雨音の寂しさであり、白く乾いた岩間から聞こえる蝉の声に誘われる寂しさであり、荒海の上に横たわる天の川や梅雨に滔々と流れる大河に感じる寂しさのことである」
と説明する。

これを直訳すると、滅茶苦茶にむずかしくなる、それが「わびさび」の根源だと。他の外心には理解しえない、だから「わびさび」だと。

多分、秀吉さまと利休の隠語の遊びだから、他がわかるはずもない。
そんなことを「わびさび」と理解するのですが、所詮、貧民せん貧の分際であって、その領域分水嶺をみたこともない。

なぜ外国人はこの概念に魅了されるのか

米大学教授が解説する「日本の『わび・さび』の美学」5min2024.5.7 COURIERjp Text by Paul S. Atkins

「わび・さび」はいまや海外でも“Wabi-Sabi”として知られているが、この日本独特の概念を定義するのは日本人でも難しいだろう。ワシントン大学で日本語や日本文学を教えるポール・アトキンス教授が、「わび・さび」が日本国外に広まった経緯と、その美学に外国人が惹かれる理由を解説する。

日本に逆輸入された

先日ニューヨークを訪れた際、マンハッタンにある日本の書店に立ち寄った。日本に関する英語の本が並ぶなか、「わび・さび」専用の棚があり、『わび・さびの恋愛術』『わび・さび道』『芸術家、デザイナー、詩人、哲学者のためのわび・さび講座』などのタイトルが陳列されていた。
いったい「わび・さび」とは何なのか、そしてなぜ「寿司」や「空手」といったジャンルと並び、独自のコーナーが設けられるほどの扱いを受けているのか?
「わび・さび」は、一般的には伝統的な日本の美意識と説明されている。「傷がある」または「未完成な」という意味合いでの「完全な不完全さ」の美だ。実は「わび」と「さび」は似て非なる概念だが、日本以外では一緒くたに扱われることが多い。

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日本で育った人でも、「わび」と「さび」を正確に定義するのは難しいかもしれないが、どちらも間違いなく日本独自の考え方で、とくに難解な概念ではない。(いや難解だ、定義も出来ない 筆者)

日本の古語や古典文学、伝統文化を研究する身として、私も「わび・さび」と、それが日本国外で理解されるに至った経緯について専門的な関心を持っている。

グーグル・ブックスをざっと検索してみると、この言葉が英語の文献に現れはじめたのは1980年頃だとわかる。おそらくこれは、日本の美術評論家・柳宗悦の評論集が1972年に『The Unknown Craftsman(無名の工匠)』として英訳出版されており、それに対する反応が遅れて訪れたのだろう。

本作中の「不規則性の美」と題されたエッセイのなかで、柳は「茶道」とその素朴な優美さについて語っている。茶道にとどまらず、柳はタイトルが示すように、完璧、洗練、対称性といった伝統的な理想とは異なる美の感覚に魅了されていた。(柳宗悦 民藝運動の主唱者)

「『素朴さ』の背後に隠れた美がひそんでおり、私たちはそれを『渋い』『わび』『さび』という独特の形容詞で呼んでいる」と柳は書いている。

「渋い」とは、「質素な」とか「控えめな」というような意味だが、日本国外で広まったのは、わびとさびのほうだった。おそらく、二語が韻を踏んでいるためだろう。

米国やその他の国々で流行した後、「わび・さび」という言葉は複合語として日本に逆輸入された。私がネットで見つけた日本語の情報源では、「外国人にわび・さびをどのように説明するか」といったトピックが一般的だった。なお、標準的な日本語辞典に「わび・さび」は載っていない。

侘しい和歌

「わび」は古典日本語の動詞「侘ぶ」の名詞形で、現代語の動詞「わびる(詫びる)」や形容詞の「わびしい(侘しい)」と関連している。
「侘ぶ」とは、「悩む」とか「悲観する」といった意味だ。

ここで9世紀に詠まれた有名な和歌を紹介する。和歌とは日本の古典詩において中核的な位置を占める31音の短い詩だ。歌人は在原行平という貴族で、彼が何らかの咎で西日本の海岸沿いにある景勝地、須磨に流されていた際に詠んだ歌である。

わくらばに

問ふ人あらば

須磨の浦に

藻塩たれつつ

わぶとこたへよ

(たまたま誰かに尋ねられたら、私は須磨で悲しみに暮れながら涙を流しているとお伝えください)

とはいえ、行平にとって須磨はそれほど悲惨な場所ではなかった。伝承によれば、行平は須磨で二人の姉妹と相思相愛になったという。それでも彼の和歌はわび住まいの悲しみ──馴染み深い宮廷の世界から追放され、ひっそりと暮らす悲嘆をよく捉えている。

わび茶の芸術

その後、「わび」の情緒は日本を象徴する伝統のひとつ、茶の世界にも浸透していった。

抹茶と呼ばれる粉末の緑茶を飲む習慣が日本に伝わったのは、1200年頃のことだ。禅僧が留学していた中国から抹茶を持ち帰り、薬などとして使ったのが始まりである。やがてお茶は一般の人々にも広まり、16世紀半ばには日常的な飲み物として生活に溶け込んでいた。

まさにその頃、お茶を点て客人に振る舞う行為が、いわゆる茶の道、「茶道」と呼ばれる崇高な芸術へと昇華した。

茶道が人気を博すにつれて、有力な武将たちは火鉢、釜、茶杓(ちゃしゃく)、茶筅(ちゃせん)、茶碗など、垂涎の的となっていた茶器を競って手に入れた。茶室自体が、絵画や書の掛け軸、精巧な作りの花瓶や香炉など、貴重な芸術品で飾り立てられることもあった。

やがて、より厳格で簡素なスタイルを支持する茶人や師匠が現れた。そうしたスタイルが「わび茶」である。文字通り「わびしい茶」という意味で、新興の武士や商人が茶会を富の誇示の場として利用したのに対し、わび茶は繊細さ、質素さ、慎み深さに重きを置いた。

古い茶室からは、わびの痕跡を容易に見て取れる。時の経過による古色を帯びた、上品ながら目立たない調度品のほか、茶器それ自体──とくに歪みや亀裂の入った、くすんだ色合いの茶碗などにその美は表れている。

わび茶は、16世紀に茶の湯の巨匠・千利休が革新をもたらしたことで頂点に達したといえる。彼の手法は現代に引き継がれており、竹製の茶杓や黒楽茶碗、そして「にじり口」という60センチ四方ほどの小さな茶室の入口がその例だ。客人は身体をかがめてにじり口をくぐることで、居心地の良い母体のような茶室に入ることができる。

優美な寂しさ

「さび」も「わび」と同じく名詞で、こちらは古語動詞「寂ぶ」が語源だ。現代語の動詞「さびる(錆びる)」には、古びる、衰えるといったニュアンスが含まれる。また、現代語の形容詞「さびしい(寂しい)」は、孤独という意味だ。

古典詩歌には「さび」を詠んだものが多くあるが、「芸術的な理想」として確立したのは17世紀頃である。俳句と呼ばれる17音の詩歌形式において、俳人たちは「さび」の持つ独特な孤独感を表現しようとした。

スタンフォード大学の日本文学名誉教授だった故・上田真は、
「さびとは、愛する人を失った男の孤独ではなく、夜に大きな里芋の葉に降りかかる雨音の寂しさであり、白く乾いた岩間から聞こえる蝉の声に誘われる寂しさであり、荒海の上に横たわる天の川や梅雨に滔々と流れる大河に感じる寂しさのことである」
と説明している。
17世紀の俳句の巨匠、松尾芭蕉は、弟子の向井去来が詠んだ俳句に「さび」を見出した。

花守や 

白き頭を 

つき合はせ

(満開に咲き誇る桜の下で、花守の老人が白髪頭をつき合わせるようにして、ぼそぼそと何か話をしている)

朝鮮人を拉致する前期倭寇(韓国国立中央図書館所蔵『續三綱行實圖』より)

フランス人歴史家に聞く 「日本の海賊」を研究しようと思った理由

前述のとおり、「わび・さび」がひとつの用語として併記されるようになったのは比較的最近のことで、古来からの用法ではなく、日本が発祥でもなさそうだ。
それでも、日本的な美学が起源であることは間違いなく、「わび」は茶道から、「さび」は詩歌から生まれた概念である。
わびとさび、この二語の組み合わせは、芸術や人生を語るうえで西洋の語彙に欠けている部分を埋めているように思える。つまり、完全性や過剰さから距離を置き、未完のものや壊れたもの、言外の言葉に美を見出す心情である。
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「荒海の上に横たわる天の川や梅雨に滔々と流れる大河に感じる寂しさのことである」
と説明する。


これを直訳すると、滅茶苦茶にむずかしくなる、それが「わびさび」の根源だと。他の外心には理解しえない、だから「わびさび」。
多分、秀吉さまと利休の隠語の遊びだから、他がわかるはずもない。と私は考えた。筆者

緑茶は中国が発祥ですか? 株式会社市川園

お茶文化の発祥は中国。 紀元前2700年頃、神農(しんのう)が薬としてお茶を発見したのが始まりと言われています。 遣唐使が中国から持ち帰ったことから日本に広まっていったと言われています。 唐(現中国)の陸羽(りくう)が世界最古のお茶の本、「茶経」を執筆。

神話・古文書に見るお茶 ~お茶の利用の始まり~

●医薬と農耕の神・神農炎帝が発見したお茶

神農

 お茶の原産地・中国には、お茶の発見が神話として伝えられています。

 神話の主人公・神農(しんのう)は、紀元前2740年頃に活躍した皇帝。実在が確認されている王朝より前の時代で、三皇五帝(中国を形作った神や聖人)の一人に数えられています。神農のエピソードは、紀元前に書かれた思想書『淮南子』(えなんじ)、歴史書『史記』、8世紀ごろのお茶の専門書『茶経』など、多くの古文書にみることができます。120歳まで生きたと言われる神農炎帝が山中にお茶を見つけ、その解毒作用を頼りにしていた、そんな伝説をご紹介します。

神農はたくさんの薬草を発見し、日に70以上の毒にあたったが茶で毒を消した

はるか5千年も昔の中国のことです。長江中流の湖北省隋州に、後に神農炎帝と呼ばれる、一人の男子が産まれました。この子の母・女登は、旅先で龍神の霊気に触れて妊娠したのでした。男の子の成長は速く、生後三日で喋り、五日で歩き、七日で歯が生えました。やがて、身長は八尺七寸(約2m60cm)となり、たくましく、探究心旺盛、思慮深く育ちました。

姜という部落の首領となった神農は、領民の生活、健康に心を砕きます。狩猟、漁労が中心だった時代、穀物栽培のノウハウを編み出しました。また、鍬、鋤の原型となる農機具を発明し、農耕による生活の安定を図りました。これが「神農」の名の由来です。

また、油分の多い木を束ねてつくる松明を発明したとも言われます。人々に明かりと熱をもたらし、火によって徳を得たことで「炎帝」(えんてい)とも呼ばれるようになります。日を定めて物資を交換することを始めて、市場や交易の原型も築きました。

これが商売の神様と言われるゆえんです。

当時の人々は、生水や生ものでおなかを壊し、病気や怪我を負っても、治すすべを持たずに苦しんでいました。そこで神農炎帝は自ら山に入り、目にした草木を端から調べ、人のためになるものと有害なものを見分け薬になる物とその効能を人々に伝授しました。

神農炎帝の調べ方は独特です。

手にした赤い鞭で草木を砕き、自分で服用して試します。驚くことに、神農の胴体は水晶のように透明で、外から内臓が見えました。有害な草を食べると内臓が黒くなり、毒があることがすぐにわかります。あるとき、一日で72もの毒にあたってひどく苦しみます。その時そばにあった、白い花をつけ、さわやかな香りのする若葉を口にしたところ、その葉は腹の中をくまなく移動し、体内の毒が消え、体調も回復しました。その葉の様子は、まるで腸を検査するようだったので神農炎帝は、その葉を「調べる草」という意味を込めて「査」と呼びました。
それがいつの間にか「茶」に変化したと言われます。


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